2008年06月22日

小説書きのための構造主義(8)

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■物語の構造分析(4)



《実例:4》入れ子構造

 注意! ここから何回か紹介する実例は、応用編となりますよー!

 構造を説明する上で欠かせない概念に、《入れ子》があります。
いれ‐こ【入れ子/入れ×籠】
1 同形で大きさの異なる器物を順に組み入れるように作ったもの。重箱や杯など。「―の箱」
2 《1を比喩として》外部に現れない事情。「―のある話」
3 (入れ子)自分の子が死んだために、他人の子を養子に迎えて育てること。また、その子。養子。
4 櫓杭(ろぐい)を差し込むために櫓にあけた穴。
(Yahoo辞書より)

 入れ子の代表と言えば、ロシアのマトリョーシカ人形が挙げられるでしょう。人形型の箱を開けると、中から同じ形の小さな箱が出てくる。更にその箱も開けると、また同じ形の箱が出てくる。
 そして物語における《入れ子構造》と言うのも同じように。ある構造の物語の中から、同じ構造の物語が出てくる。そのような物語を言います。

 と説明だけでも分かりづらいでしょうから、ひとつ例を挙げさせてもらいます。
 《親殺し》の構造を持った物語だったとするならば。主人公は父を殺しました。しかし父も実は祖父を殺していたのです。後に主人公も息子に殺されることとなります。そして、その息子も孫に殺されるのでした。
 以上、配役が変わっているだけで、延々と「子が親を殺す」と言う《構造》だけが連鎖的に続けて行われていることに気付くはずです。

 ついでに、もうひとつ例を。今度は《復讐劇》の構造です。
 主人公は家族を殺した仇に復讐しました。しかしその仇には家族がいたのです。結果、自分は仇として復讐されました。
 いかがでしょうか。確かに、そうしたアクションを起こすための動機など、キャラとしての《実存》にはもしかして、差はあるかもしれません。ですが、《構造》として見た場合、やっていることは同じですね。

 大抵の物語は、構造が変化し、次から次へと別の構造へと交代してゆきます。
 図式化すると以下のようになることでしょう。
構造A ⇒ 構造B ⇒ 構造C ⇒ 構造D

 しかし入れ子構造の場合。ある構造が、自らと同じ構造を生み出すべく作用する。結果、同じ構造が延々とループして続くことになるのです。
構造A ⇒ 構造A' ⇒ 構造A'' ⇒ 構造A'''
 では突然ですが、ここで皆さんに質問です。
 《親殺し》だろうが《復讐劇》だろうが、構造的には同じですから、どちらの物語を選んでも結構です。さて、以上の物語において、いちばん悪いのは誰で、誰が正しかったのでしょうか? ただしこの場合は、法学的な判断を除外させてもらいます。
 この質問における重要な点は、哲学的に見た場合における、善悪の判断についてなのですから。

 この質問、「卵と鶏、どちらが先に生まれたか」と言う問いにも似ています。そうですね。「卵が先か鶏が先か」と言う問いもやはり、入れ子構造を持っています。
 では、もうさっさと答えを出させてもらいますと。今は構造主義に関する説明の場ですから、構造的に考えてください。すると、このような返答が導きだされます。
 「構造のみがある」と。

 入れ子構造において。「悪いから殺した」とか「殺したから悪い」とか、判断基準そのものがループしていますから。どこかに絶対の価値を置くことはできません。つまりキャラクターにとっての《実存》は、しょせん代替可能なものでしかないのですね。
 例えば主人公がある人物に対して、「あの人は親である」と言う意味を見出しているのは、偶然に過ぎません。なぜなら、その判断基準となっているのは、「自分という実存」にあるからです。

 ここで「シニフィアンとシニフィエ」について思い出してください。
 英語で「octopus」と表現しても「kite」と表現しても、日本語では同じ「タコ」と呼ぶように。シニフィアンとシニフィエとは、不可分の存在ではありません。いいえむしろ、代替可能な存在です。

 同じように、主人公がある人物へ「あの人は憎い仇だ」とか「あの人は親だ」と言うシニフィアンを抱いていたとしても。それは、当人には関係ない。時と場所が変わればその人物はもしかして、「恐ろしい敵」であったり「善き夫」であったり「頼りになる仲間」であったりと。異なる意味の中で生きて行くことになるのですから。
 だから《親殺し》とか《復讐劇》とは、しょせんシステムの問題であって。自分が勝手に「親」とか「仇」と呼んでいる人に危害を与えることとは、無関係の話なのですね。

 ならば一体、構造主義とは何なのか。哲学とは何なのかと言うことになってしまいますが。
 構造主義とは、そしてそもそも哲学とは、ある特定の偏った判断基準を与えるためのものではありません。更に言うと哲学とは、価値観でも戒律でもプロパガンダでもないのです。
 哲学とは特に何かを禁止したり、薦めたりするものではない。それこそ場合によっては、法的な犯罪をも肯定しうる。単なる論理体系に過ぎないのですね。もっと分かりやすい言葉に置き換えるならば、「ものの見方」であり。もしくは文学的に表現するならば、「世界観」と言うことになるでしょうか。

 ならば構造主義とは何なのかと言うと。ものごとには仕組みが存在する。その仕組みを明かそうとする視線のことを指して、構造主義と言うのです。
 ……てこれは小説書きとしての話だから、本物の哲学者さんは「間違っているぞ!」とか怒らないでね?

つづく
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2008年06月15日

小説書きのための構造主義(7)

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■物語の構造分析(3)



《実例:3》同構造・別視点・別物語

 視点講座を既に読んだことのある方なら、既に知っていることでしょう。「不倫の物語」は視点のありかによって、ストーリーが変わってきます。
 そこで以下に、その視点講座から引用させてもらうとしましょう。
 この話には主に、三人の登場人物が出て来る。一人目は優柔不断な男。二人目は男の妻で、昔ながらの貞操観念をかたくなに守っている。三人目は、男の不倫相手である愛人の女性だ。
 以上の登場人物だけで簡単に想像できるだろう。この話のあらすじは、妻と愛人、ふたりの女性が男を取り合う、と言うものである。
 だがこの物語、実はまだ主人公が決まっていない。いったい主人公にふさわしいのは誰だろうか。

 もしも妻を主人公にした場合はどうなるだろうか。
 描かれるのは、男のだらしなさと、愛人の無責任で放埒な姿だ。恐らくは、日常と家庭を守るために主人公である妻が奮闘する物語となるだろう。
 ならば愛人を主人公とした場合はどうなるか。
 物語では、古い貞操観念に縛られた、妻と言う女との争い。そして男との逢瀬の日々が描かれることになる。恐らくは、自由な真実の愛を求める内容となるだろう。

 両方の物語ともやっていることは同じだ。だが主人公を変えることで、全く逆の印象を抱かせる物語となる。
 だからもちろん、男が主人公であった場合はどうなるか。また、三人の中の誰でもない。公平な第三者が、この状況を傍観した場合であっても、印象は変わって来るだろう。

 以上の例からは、つまりみっつの物語展開が考えられる、と言うことになります。そのみっつを、とりあえず考えてみると、こうなるでしょうか。
●その1:「夫に不倫をされる妻の物語」
●その2:「妻ある男性と不倫の恋を楽しむ女性の物語」
●その3:「妻に内緒で愛人を作って不倫をした夫の物語」

 そして、「不倫の物語」の例ですが、これは構造の説明を行う際にも良例として使うことができます。
 と言うのも、視点講座の引用にある「(視点が違っても)両方の物語ともやっていることは同じ」とはどう言うことなのか。ネタバラシをしてしまうと、実は「同じ構造を持っている」と言うことである。
 つまり、視点のありかによって、同じ構造でも、異なるストーリーとなるのです。

 視点を設定することで、その構造のどこに《実存》があるのか。言い換えれば、物語のどこにリアリティがあるかを設定することになる。と言うことは、そこが物語の最重要点である、と言うことになるでしょう。すると、構造に対して視点を設定すると言う作業が、「その構造とはどのような物語なのか」と言う作者の意図を表出することになる。すなわち、作品のテーマを決定づける作業ともなるのです。

 ……と以上、構造と視点とは関連性がある。このことは頭の隅にでも憶えておけば、いつか役立つかもしれませんよ?

つづく
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2008年06月13日

小説書きのための構造主義(6)

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■物語の構造分析(2)



《実例:2》構造主義と実存主義

 これから説明する「初恋の物語」は、構造とは何なのか説明する際においての、良例となります。
 皆さんも思春期くらいまでに初恋と言うものを体験する(している)はずですよね。「していない」と言う人がいたとしても、話が進まなくなるので異論は認めませんよー。
 で、初恋は誰でも経験するものである。ならば、その初恋と言うものを、どう捉えるのか。

 構造主義的に考えれば、《初恋の物語》も「よくあるパターン」のひとつとして類別できてしまいます。
 それこそ初恋なぞ、とっくの昔に経験し終えてしまった人間ならば。自分の初恋は、誰でも経験する「ありきたり」な笑い話となる。赤の他人が初恋を経験しているのを見ても、「ありきたり」なパターンのひとつとしか思えないかもしれません。
 ですが、まさに初恋を経験している最中の、当の本人にとってはどうか。いま感じているこの思いは、とても大事でかけがえのない、唯一無二の存在であると言うことになる。
 この「唯一である」・「かけがえのない」・「今だけ」と言う考え方こそが、構造主義に対する思想。《実存主義》と言うことになります。

 ……まあ、正直なところを言うと、実存主義とはどのような思想哲学なのか。構造主義以上にボクは理解できていません。十中八九、違うと思います。
 ですからここは単純化して考えください。「今あるこの瞬間こそが自分にとって最も大事だ、とする考えがある」として。

 するとこの実存主義。構造主義の対義語と言って良いほどに、内容的な相性が悪い思想なのですね。
 構造主義は人の行動をパターン化してしまう。どのような人の行動も、「ありきたりなパターンのひとつ」と化してしまう。一方、実存主義は判断基準が主観にある。全てが今と言う一瞬の内にあり、今この時は一度しかないから、全ては「かけがえのない」ものだ、と言うことになる。
 こうして、構造の「ありきたり」と、実存の「かけがえのない」。両者の言いたいことが、正反対のものとなってしまうのですね。
 ただし、ここで注意しなくてはいけないことがあります。構造と実存、どちらが正しいわけではない。ただ視点の違いによって、価値判断と言うものは変わってくるものだ。それだけの話なのです。

 ならば、初恋の体験を構造化してみると、どうなるか。きっと次々に恥ずかしい思い出が蘇ることでしょう。
 好きな人が帰るのを、待ち伏せしてみたり。あげくはストーキングしてみたり。格好を付けて、珍妙なファッションに凝ってみたり。相手をデートにさえ持ち込めば、きっと何か事態が打開できると思い込んでみたり。何度も話しかけたり、遭遇していれば、好感度が上がる! とかギャルゲー脳な思考になってみたり。相手の注意を引きたくて、あえて意地悪をするのだけれど、案の定おかげで嫌われてみたり。恋の成就するおまじないに頼ってみたり。他にも、きっと色々。
 恋に恋する自分に酔ってしまい、冷静になれなくって。後でよく考えてみれば、「これだけはありえない」と言う行動ばかりしていたことに気が付かされるのではないでしょうか。ただしその思い出も構造化さえしてしまえば、今では笑い話となってしまう。
 でも当時は、自分で自分の気持ちと行動が大事だと思い込んで、疑わなかったはずなのですよ。どちらが絶対的に正しいと言うわけではない。

 文学において重要なのは、多面的なものの見方をすることです。
 「今ここだけにいる自分」と「パターンのひとつに過ぎない自分」。「パターンかもしれないが、今だけしかない」と言う感覚と「今だけしかないだろうが、結局はパターンのひとつだ」と言う感覚。
 実存と構造とで物語を行き来させることで、物語には更なる深みが生じるのですね。

 例えば、キャラクターの人物造形ならば。
 物語の登場人物とは結局のところ、他人に過ぎません。書き手である自分とは関係のない、他人事です。ゆえにキャラクターと言うものは、構造主義としての視点を通すまでもなく、どうしても類型的になってしまう。そこへ実存的な描写を加えることで、類型としてのキャラクターへリアリティが吹き込まれるようになります。
 逆に、私小説やエッセイのような自分語りの作品ならば。興奮する自分を制御しつつ、行動や心理を構造化してみる。すると構造化には、他者との比較が必要になりますから。自分語りの言葉を構造化することで、客観性が生まれるのですね。そして客観性ある文章は、読んでいて共感しやすくなります。

 と以上。こうしてみると、ストーリーなどのテクニック講座に思えて、案外と思想哲学との関連性が多いことを知っていただけたのではないでしょうか。だから構造主義を理解したくない、と言う方にはこれ以降のストーリー構成テクニックが教えられなかったりする。その辺りに、小説技法の難しさがあります。
 小説技法は思想哲学と、思想は技法と、案外に似たところがあるものなのですよ。

つづく
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2008年06月10日

小説書きのための構造主義(5)

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■物語の構造分析(1)

 では物語創作において、構造がどう使われているのか。また、どう見出すのか。文学における例から見てみよう。
 そう。ボクにしては珍しいと思われる方もいるかもしれない。あえて今回は技法や理論からではなく、実践例から入らせてもらう。まずは雰囲気を掴んで欲しい。後で説明させてもらうが、これに関してはちょっと訳アリなのだ。
 ちなみに構造は物語創作にとって、最高のテクニックのひとつである。例から入ってしまうと言う変則的な方法を採らせてもらうので、しばらくは全体像を把握しづらいかもしれない。
 だが損はないはずだ。



《実例:1》同構造だが異なる物語

 子にとって親とは敬愛し尊敬すると共に、乗り越えるべき対象だ。特に、男の子にとって父親は抑圧の元凶ともなる。そこから生まれたのが、父親を殺すことで、権力を奪い自分が王となる物語。つまり《父殺し》の物語構造である。

 この構造は神話やファンタジーにとって馴染み深いモチーフでもある。例えば、暴君に神託が下る。息子が自分を殺すことになるであろうと。そこで暴君は生まれたばかりの息子を殺そうとするが、間一髪、生きながらえる。そして立派な若者に成長した息子は、暴君を自らの父とは知らずに殺す。そして自らが正当なる王として国を統治することになりました。めでたし、めでたし、と言うようにだ。

 ならば、この《父殺し》の舞台と登場人物を変えてみると、どうなるだろうか。まず舞台は昭和の日本。主人公は喧嘩の腕っ節だけで高校の日本統一を目指している、喧嘩番長だ。
 ……ここまで出してしまえば、勘の良い人ならば気付いている頃だろう。もちろん主人公の父親は、日本政府を影から操る黒幕だ。主人公の番長は、日本を支配しようとする父の悪しき野望を叩き潰すために戦う。と、このようなストーリーになることだろう。

 では次に《父殺し》の構造で、ホームドラマを作るとしたらどうなるだろうか。少し考えてみた。
 主人公の少年は歌手になる夢を追うために、住んでいる田舎から、東京へ行こうとしていた。だが父親にずっと反対されていたため、決心が付かない。ところが、ある日のこと少年はこんな話を聞かされる。実は父もその昔、歌手を目指して東京に住んでいたことがある。だが苦い思いをした経験があったのだ。
 ……と言うのは、どうでしょうかね? この場合の《父殺し》の「殺す」と言うのは、「親を越える」と言うことのメタファーだと言うことになります。

 どうだったでしょうか。ファンタジーに、番長ものに、ホームドラマ。全て舞台と登場人物が違うだけで、同じストーリー。つまりは同じ構造をしていることが御理解いただけたかと思います。あと加えるならば、舞台を「宇宙を支配する銀河帝国」にしてしまえば、映画『スターウォーズ』になりますね。
 ちなみに越えるのは別に、実際の父親でなくても構いません。父権を象徴する、「自らを抑圧する権威」でさえあれば良いのです。注目すべきは枝葉末節ではなく、構造なのですから。

つづく
posted by はまさん at 00:29| Comment(2) | TrackBack(0) | 連載:構造主義教室

2008年06月06日

小説書きのための構造主義(4)

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■神話と元型(2)

 では神話の構造は他に、どのようなものがあるのでしょうか。実例として幾つか挙げさせてもらうと……

 悪い竜を退治して、勇者として讃えられる《竜退治》の物語。

 高貴な家の出の者が流浪の身へと落ちてから、元の立場へ返り咲く《貴種流離譚》。

 神話と言えば、世界がどうやって創られて、またどうやって終わるかに関して言及された物語。いわゆる《創世と終末》の神話も、サンプルを多く集めてみると、幾つかのパターンに分けられます。
 もちろんそれは、日本神話であろうが、キリスト教であろうが、例外ではありません。

 人ではない何者かが、人間に化けて人と結婚する《異類婚》。
 これは日本でなら『鶴の恩返し』と言う昔話が有名ですね。そして異類婚の物語は内容が、「恩返しの結婚、約束の破綻、悲劇の別離」と中々に類型化されています。神話の構造分析に使うサンプルとしては、格好の材料と言えるでしょう。

 浦島太郎の物語も、神話として構造的に読むと、中々に興味深いものがありますよ。
 実は「海の楽園から帰ってみると、すごく時間が経過していた」と言う、《浦島太郎類型》の物語は、日本だけにあるのでない。環太平洋的に広く分布しています。どうやら浦島太郎の元となる物語は、古代の海洋民族に伝わる神話だったようです。
 加えて、内容としては、宗教結社への参入儀式[イニシエーション]を暗喩していると言う説もありますし。本当は深いんですね、浦島太郎。

 そして神話の構造研究として定番かつ、最も有名な題材となっている物語が『シンデレラ』です。
 シンデレラの物語は、詳細な要素が違うだけで粗筋が同じ《異文[ヴァリアント]》が世界中に分布しています。中国にも『掃灰娘』と言うタイトルで古くから、シンデレラと同構造の物語が残されているのですよ。
 そして、シンデレラは単なる民話・おとぎ話と言うわけではなかったのですね。古く源流の形を残しているものであるほど、宗教儀礼における呪的な意味を象徴している。
 シンデレラは古代において、まさしく宗教書であり、呪術書であり、哲学書であり、神話であったのですね。ただし古い物語なんて、大体がそんなものです。娯楽目的の物語が作られ読まれるようになったのは人類史的に、ごく最近になってからの話ですから。

 ちなみに、ついでなので神話に関して、もう少し説明させてもらうと。
 人類史的に物語と言うものはまず、世界の起源について説明した「神話[myth]」として生まれている。次に民族の起源について説明するために英雄たちの「伝説[legend]」が語られる。そうした過程を経てようやく、娯楽の物語として「民話[folktale]」が出てくるのです。
 ……と以前、ボクは語ったことがあったのですねー。はい。

 また構造を言語における文法だとすれば、その中に入れる単語に当たる要素にも、一定のパターンが見られます。
 例えば、悩める主人公にアドバイスをくれる、老いた賢者。主人公の偽物。道化役。包容力と母性の象徴たる、グレートマザー。他にも沢山ある。
 これらがユング心理学で言う《元型》。世界中の神話に共通して見出される、人類に普遍の思考パターンです。
 ちなみに元型も現在ならば、ツンデレ、ネコミミ、メイドさん、受と攻、などと言う萌え属性になってしまうかもしれませんね。

つづく
posted by はまさん at 01:20| Comment(2) | TrackBack(0) | 連載:構造主義教室