2008年10月29日

葛藤に関する補足

 折角ですから、先日に書き忘れていたことを補則しておきます。

−−−−−

 この「変わる初期設定」。キャラクターに関するものならば、《葛藤》となりますが。人間関係、世界設定、舞台、状況と言った外界に関するものだったとしたら。もしかすると、それは《アクションシーン》と呼ぶのが相応しくなってくるかもしれません。

 喩え派手に戦っていたとしても、相手が雑魚で主人公は必然的に勝つようなシーンの場合。それはアクションとは呼べません。単なる殺陣です。
 また逆に、ファミリードラマにおいても初期構造が劇的に変化する瞬間ならば、それこそ《アクション》と呼ぶべきでしょう。殺陣をやらなくても、アクションは存在するのです。
《実例》
「ぼくらは仲良し一家。将来は家業を継ぐんだ!」

「俺が……血の繋がった子じゃないって、どう言うことだよ?」

 またこの葛藤の瞬間は。外界の干渉で、キャラクターの内界が変わる。キャラクターの干渉により、外界が変わる。と言うように、内部と外部を行き来させましょう。
 そうすることで、内部と外部の構造が衝突。より物語は劇的[ドラマティック]なものとなります。
posted by はまさん at 23:50| Comment(2) | TrackBack(0) | 連載:構造主義教室

2008年10月25日

小説書きのための構造主義(17)

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■物語の構造分析(7)

《実例:8》構造的に読解してみる(6)

 だったら、一体どうすれば良いのか、と言う話になってくる。では試しに、構造的な辻褄を合わせて、ひとつの推敲例を挙げてみよう。

 まず本当なら、ストーリーが「現実逃避 vs 厳しい現実との戦い」と言う構造になっていないといけない。そもそも、ここがズレてしまっているのが、最大の失敗点となってしまっている。
 そこで、この「現実逃避 vs 厳しい現実との戦い」を中心軸に、ストーリーを組み直すことにしよう。

 まず試しに、こんな技法を使ってみることにする。
 最初に提示されたAと言う構造だけでは、読者は充分に納得できない。そこでAに対抗する、Bの構造を中に放り込む。
 なかなかにベタかつ、ありがちな技法ですな。しかし対立構造を放り込むことで、前提となる設定に揺らぎが生じる。主人公が自分で何が正しいのか、何をしたいのか、分からなくなる。
 つまりは、《葛藤》が生じるのだ。

 例となっているストーリーならば。《高校》で「既に厳しい現実と戦っている」と思い込んでいる主人公に対して、《異世界》と言う「更により厳しい現実との戦い」と言う物語へ放り込んでやる。
 すると主人公は、生き残りたければ戦うしかない。戦うために、主人公は変わらざるを得ない。昔のままの自分では、生き残れないからだ。
 そうして主人公の「初期設定・初期構造」が変わってしまう。ここが《葛藤》の生じるポイントとなる。

 そうして葛藤させた上で、主人公に自分で判断させ、物事を選択させる。この選択こそが、主人公の意思表明となる。そして、その自己選択に対して、《結果》と言う責任を負わせる。
 こうすることで、主人公は《現実との戦い》を行っている、と言うことが読者にも納得できるようになってくるのだ。

 ただしここで注意しなければならないことがある。葛藤を単なる「主人公の悩み」にしてはならない、と言うことだ。
 葛藤とは、初期設定と言う構造に対する、相容れない設定。ストーリー構造上での対立項となっていないといけない。
 そこでいくつか、葛藤になりうる設定を考えてみました。
《葛藤の例》
●構造的に、魔王にも立場があるので。魔王は別の勇者を召喚していた。しかも別の勇者とは、主人公の友人だった。主人公は友人と戦わなくてはならない。
●勇者の力を使うと、必ず主人公は死にます。しかし主人公には戦わないといけない理由があります。
●実は魔王とは、勇者のなれの果てでした。そのことに主人公が気付く頃には、後戻りできない状態になっている。

 うん。どれもこれも主人公にとっては救いようのない、イヤなこと限りない設定ですね。
 内容としてはベタなアイデアかもしれませんが。以上のように物語の構造さえ見えていれば、自然とあるべき発想の方向性は見えてくる。ありきたりなアイデアでも、配置次第で輝かせることができるわけです。
 ならば今度は、この「葛藤の例」を利用して、作品を改正してみるとしましょう。

つづく


追記:補則を加えさせてもらいました。
posted by はまさん at 20:18| Comment(4) | TrackBack(0) | 連載:構造主義教室

2008年10月21日

小説書きのための構造主義(16)

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■物語の構造分析(7)

《実例:8》構造的に読解してみる(5)

 しかしなぜ作者の意図と、物語構造が起こさせる実際の効果とに、これほどの食い違いが起こったのであろうか。
 詳細は後述するが、先に答えから説明してしまうと。構造は視点によって決定するからなのである。

 視点とは同時に、焦点[フォーカス]である。焦点とはつまり、注目している中心点だ。文章ならば、主旨と言うことになる。
 すると「視点の狂い」とは、内容と主旨とがズレて、支離滅裂になってしまっている状態だと言えよう。

 ならば物語構造における「視点の狂い」とは、どのようなものかと言うと。作者が言いたいことと、物語でやっていることが違っている。喩えるならば、有言不実の状態だ。
 そりゃあ、読者が感情移入できるわけない。

 そして視点が狂った作品は、その時点から作者が別モノになったにも等しいと言えよう。作者が別モノになったと言うことは、作品が別モノになったと言うことでもある。
 ゆえに作者が自分で作品へ込めたメッセージをコントロール出来なくなる。だから有言不実の状態になったりするのだ。

 作者の書きたいことと、読者の読みたいものとは違う。
 文章書きに伝わる知恵に、このような警句があるが。この「書きたいことと、読みたいものとのズレ」は描写でも物語構造上でも、以上のように視点の狂いが原因で生じるのだ。

つづく
posted by はまさん at 00:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載:構造主義教室

2008年10月15日

小説書きのための構造主義(15)

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■物語の構造分析(7)

《実例:8》構造的に読解してみる(4)

 もちろん、単なる偶然であったとしても、後々に意味が生じて、必然となることもあるだろう。
 しかし《高校生の構造》において主人公は、現実と戦いたくがないが成功だけは欲しい、と言う願望を抱いている。それが異世界に召喚されて、戦わないと命すら落としかねない状況に陥ってなお。結局は《勇者の力》と言う御都合主義によって、戦う必要がなくなっている。
 すると主人公は初期設定のままで、何も変われなくなってしまう。なぜならば、差異こそがアフォーダンス、つまり意味を生じさせるからだ。どこまでも同じ「自分」しかいない世界に、意味は生じえない。なので偶然の出来事へ対して、後々に意味が生じると言うことはありえなくなってしまうのだ。

 もしくは、作者として「あくまで主人公は頑張っているんだ! 自分はそう言うつもりで書いたのだから間違いない。なんでお前ら読者は読解するんだよ!」と主張することも出来よう。
 だが実存と構造の問題が、ここにも出てくる。まず主人公にとっての「現実」が、所詮は「実存のひとつ」に過ぎない。「主人公は自分で苦労したつもりです」と作者が自分で言うだけだと、単なる実存でしかないのだ。そして実存だけでは、読者は物語に共感できかねてしまう。説得力に欠けるからだ。

 そしてこれが御都合主義の物語になってしまった作品における、最大の欠点なのだが。
 さきほど説明した通り、《異世界の構造》は主人公にとって「意味がない」。意味のない世界で、人は変わることは出来ない。すると主人公に内的変化は起こらないと言うことになる。
 人間、苦労しなけりゃ成長しない、ってことだ。
 だが「戦い」とは、苦労し葛藤することだ。主人公が戦ってくれないのなら、物語が展開するにつれ次々と迫る事件・困難を解決できなくなってしまう。これは困った。このままだとストーリーが進まない。そこで御都合主義によって主人公の初期設定に合わせて、ストーリーと言う《現実》の方を歪めることになる。

 しかし、だ。最初から「あるべき正しい結論」が決定済みで、物語に登場する全てはそのために存在すると言うのなら。そんなベタな作品を読者としては、読む必要はない。
 物語の面白さを決定づける要素のひとつに、《サスペンス》がある。先の展開がどうなるのか予想できないがゆえのサスペンスだ。しかし御都合主義の物語においては、「あるべき正しい結論」が最初から決定済みとなっている。ゆえにサスペンスとしての要素が決定的に欠落することとなる。
 だから御都合主義の物語は面白くないのだ。これはキャラの設定がどうとか、アイデアがどうとか、と言う以前の問題なのである。

 そして面白くない作品に対して、読者は共感を抱けない。共感できなければ、物語としての説得力も持てない。
 すると作者がどう言い訳しようと、構造的な欠陥がある物語では、「御都合主義の面白くない作品」にしかならないのだ。

つづく
posted by はまさん at 00:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載:構造主義教室

2008年09月17日

小説書きのための構造主義(14)

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■物語の構造分析(7)

《実例:8》構造的に読解してみる(3)

 ならば、例となっている物語の中では何が起こっていたのか。本当に「戦い」は行われていたのか? そして「勇者」とは、一体なんなのか。

 実際の所、常識的に考えて。平和な国に生まれ育った、フツーの高校生ごときが、いきなり戦争なんて出来るわけがない。
 だがそんな、身も蓋もないことを言い出しては、物語が進まない。そこで「勇者の力」と言う方便が用いられる。偶然に得た「勇者の力」でもって主人公は、「戦争」と言う「現実との戦い」を乗り越えるのだ。

 だが、ここにひとつ大きな問題が生じる。と言うのも、物語に偶然と言うものは存在しない。物語とは語り手によって、意図的に作られたものだからだ。ゆえに物語中に存在するものは、全て作者の意図が籠められている、と言うことになる。
 ならば主人公が勇者の力を得たのも、単なる偶然ではない。そこには必ず作者の意図が存在する、と言うことになるのだ。

 加えて「戦いそのもの」と言う主旨が籠められるべき、《異世界の構造》において、「現実との戦い」が行われていないとなれば。そうすると《異世界の構造》が単に、作者の願望を投影しただけの世界になっている、と言うことに気が付くはずだ。

 《高校の構造》で主人公がやっていることとは結局、「勉強したくない」そして「ラクしてえなぁ〜」と言う願望の垂れ流しである。それが《異世界の構造》になった途端、「他力本願で勇者の力を手に入れたい!」そして「ラクできたよ!」と言うことになる。
 主人公の願望を実現させるための辻褄合わせとして、作者が「偶然」と言う名目で、ストーリーの方を無理矢理にねじ曲げてしまった結果だ。

 つまり、この物語は「現実との戦い」を描いたものではない。《高校の構造》と《異世界の構造》と両方で、「現実逃避の物語」を構造的に反復させたクロスオーバーの物語なのだ。
 だから「現実との戦いと、魔王との戦い」と言う比較なんて、どこにも行われていない。いやむしろ、「戦い」とは正反対の意味を持ってしまっている。

 しかし、そんな「偶然」と言う作意だけで、全てを解決しようとしても。また、いくら作者が「これは現実との戦いの物語だ!」と叫んだところで、読者の方からすれば納得できるわけがない。
 ゆえにこれは構造主義的に読解するならば、作者の現実逃避したいと言う妄想を投影した、作者にとって都合の良い物語である。すなわち、御都合主義の物語である、と言うことになるのだ。

つづく
posted by はまさん at 23:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載:構造主義教室