2009年03月30日

小説書きのための構造主義(22)

前回 ・ 次回
■相対と絶対(1)

 では、その肝心な《構造主義的な思考》を身につけるには、どうすれば良いのか。重要なのは「どう見るか?」と言う《ものの見方》であり、《まなざし》の問題となってくる。
 もう少しだけ具体的に説明すると。まず、部品を見るのではない。構造とは部品の組み立て方であり、設計図なのだから。全体を見る必要がある。
 すなわち、《広い視野》を持つ必要があるのだ。

 だがここで勘違いしてはいけない。《広い視野》なんて言うと、いかにも《狭い視野》より高等なものであるとか。《広い視野》とは、政治とか経済などの、社会的なことに興味を持つことであるとか。そうした勘違いがまかり通っている。
 だが《広い視野》を持つ、とはそう言うことではない。《広い視野》を持つためにはまず、《相対的》なものの見方をすることだ。
 では、その《相対的》とは、一体どのようなことなのだろうか。
【相対主義】
哲学で、人間の認識や評価はすべて相対的であるとし、真理の絶対的な妥当性を認めない立場。ギリシアのソフィストたちが古典的代表者。
(Yahoo!辞書より)

【相対的】
他との関係において成り立つさま。また、他との比較の上に成り立つさま。「―な価値」「物事を―に見る」
(Yahoo!辞書より)

 例えばの話。
 その場に立ち止まっている人間からすれば、時速100kmで走っている電車は速く見える。だが「最高速で走っている電車」に必ずしも「速いと言う評価」が与えられるかと言うと、そうとは限らない。
 時速100kmで走っている電車へ対して、自動車に乗って同じ方向へ時速50kmで走ったとしよう。すると自動車の中からは、電車の速さが時速50kmに見えることになる。つまり、早く走っていたはずの電車は、遅く見えるようになるのだ。
 今度は電車と同じスピードで走ったらどうなるか。電車は止まって見えるだろう。更にスピードアップして、電車より速くなったとしたらどうなるか。電車は後退して見えることとなる。

 これは電車に乗っていて発車すると、風景の方が後方へ動いて見えるのと同じ現象だ。もちろん風景が後ろへ流れて見えるとは言っても、実際に風景が動いているわけがない。最初に「電車に乗っている自分」と言う基準点があって、その自分が動いていることを想定していないために、周囲の風景の方が流れて見えるのだ。
 判断基準と言うのは、時と場合と人によって変わるものだ。ゆえに絶対の判断も価値も存在しない。走っている電車が速く見えるのは、自分が遅いから、もしくは自分が立ち止まっているからだ。
 自分にとって特別なものが、他人にとっても特別とは限らないように。自分にとって下らないものが、他人にとっても下らないとは限らない。全ては、互いに関わり合って存在している。自分も動けば、世界も動いている。全てが動いているのだ。
 そうやって色んな視点から比較しながら見ることで、あらゆる価値を唯一の特別なものではないようにしてしまう。
 これが相対的なものの見方というものだ。

つづく
posted by はまさん at 22:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載:構造主義教室

2009年03月09日

小説書きのための構造主義(21)

前回 ・ 次回
■構造主義的思考法の訓練

 では。
 今まで構造のテクニックに関して、ずっと説明してきた。実例により「どんな使われ方」は分かっていただけたかと思う。構造主義的な思考法をまず体験して欲しかった。

 しかし構造主義の考えとは、哲学であり知識として理解できるだろうが。実は、構造主義を作劇に応用しようと思っても、哲学の知識を持っているだけでは、あまり役に立たない。作劇においてはあくまで構造主義「的」な思考法こそが求められる。
 構造主義について勉強している学者様だからと言って。全ての構造主義学者が、物語をきちんと構造分析できるとも限らないのだ。
 じゃあ、どうやって物語から構造を抽出するのか。必要なのは構造主義の正確な知識ではない。使うのは、あくまで構造主義「的な思考法」である。がゆえに、訓練が必要となってくる。

 ならば物語の構造とは、そもそも何なのか。例えば、前回分で先述させてもらった「珍しいだけアイデアと、既存の構造」の間には、どこに差があるのか。物語の「どこ」を探せば、構造が見つけられるようになるのだろうか。
 構造主義的思考を身につけるために。そのための訓練方法がいくつかある。

 例えばまず挙げられる訓練法として、パターンを見出すと言う意味では、ジャンル分けがある。
 だがボクは、ジャンル分けを有効だとは、あまり思えない。なぜなら大事なのは、どうやってジャンルと言う《パターン》を見出したのかと言う、プロセスだからだ。ジャンルと言う《結果》だけを注目しても意味がない。

 次に、要約と言う手段がある。
 物語を何百字か以内で要約する。慣れたら、三行以内で、更には一行で要約する。
 これはなかなかに有効かもしれない。

 ちなみに又聞きの知識で申し訳ないが。ハリウッドのシナリオ教室では、物語の構造分析は必修となっているそうだ。そのために専用の練習シートがあるとか、ないとか聞いたことがある。シートに書かれた事項を埋めるだけで、自然と構造分析が出来るようになる、と言うわけだ。
 だがボクは別に、ハリウッドでシナリオ科の大学を出たわけでもないし。残念ながら、詳しい内容までは知らない。

 そこでボクの場合は、《ハリウッドのタイムテーブル》を使いながら、たくさんの作品を分析した。
 実はタイムテーブルによる分析を繰り返していると自然に、ストーリーの重要箇所を見抜けるようになってくる。そこをまとめれば、構造が見抜けるというわけだ。

 どのみち、基本的には反復練習で身に付けることになる。技術や知識のものと言うよりは。基礎体力とか感性に近いと考えて良いかもしれない。

 ただし、描写や発想は天与の才によって、他人より先んずることも出来るかもしれないが。構造分析だけは絶対に、訓練によってしか身に付かない。
 才能があって、パターンを見抜くのは得意であったとしても。だが、それが構造であるとは限らない。

 構造分析とは、要約や、構成や、パターン化や、ジャンル分けと似てはいる。作業として、重複した領域を持ってもいるだろう。だが、全く同じものではない。
 物語を構造分析するには、構造主義独自のやり方があるのだ。

つづく
posted by はまさん at 23:31| Comment(0) | TrackBack(2) | 連載:構造主義教室

2009年03月08日

小説書きのための構造主義(20)

前回 ・ 次回
■神話の語り部となるべく

 物語には類型がある。それは、神話の時代から変わらない。例えば「憧れの英雄像」などと言うものは元型となるものが、神話の頃すでに出尽くしている。今も昔も、人の心などと言うものは大して変わっていないのだ。
 だから現在の物語も辿れば、神話として元ネタがある。現在の物語は、神話から何世代ものコピーを重ねてきた子孫であると言えるだろう。ゆえに今の物語も、昔の神話も、構造レベルでは似たようなもので昔から変わっていない。
 ならば構造のテクニックとは、物語の御先祖様である、神話へ介入するための技術であると言えるだろう。またこれは同時に、古代の語り部たちと等しい能力を獲得することでもある。

 古代における語り部は、口承と暗記だけで、何百何千と言う神話を憶えていたと言われている。ただ、この「憶えていた」と言う表現は正確ではないかもしれない。
 古代の語り部たちは別に、多くの神話を一言一句間違いなく丸暗記していたわけではなかった。神話の元となるパターンを身に付けていて、それを組み合わせていただけ、だったのである。
 神話の元となるパターン、すなわち構造だ。と言うことは、構造を操るテクニックさえ身に付ければ、我々も古代の語り部たちと同じように、神話を作り出すことが出来るようになる、と言うことにならないだろうか。

 そして作家にとって究極の目的のひとつは、独自のジャンルを打ち立てる。始祖となる。自分だけの物語を作る。すなわち神話を獲得することだ。
 例えば《メイド萌え》と言う《神話》・《物語構造》がある。今では「メイド喫茶」と「萌え」は、オタクの代名詞にすらなっている、有名な用語だ。
 だが実はつい最近、十数年前まで《メイド萌え》はなかった。もちろん誰もメイドさんのコスプレなんて、したりしない。
 そもそも、世界のどこにも「メイドさんに萌える」なんて概念(=神話)は存在しなかったのだ。そもそも《萌え》と言う概念すら、生まれたのは最近の話だし。

 もちろんメイドさんは、古典文学の頃から登場してきた。だが、誰も「メイドさん=萌え」なんて考えもしなかった。
 そこへ、どこかの誰かが「メイドは萌える!」と言う物語を再発見した。ここで「再発見」と言っているのは、「新発見」と言うわけではないからだ。昔からメイドさんは存在した。だがそこへ《萌え》を持ち込んで、新しくプロトタイプとなる神話を作り上げた人間がいたと言うだけだ。
 そうして現在、《メイド萌え》の物語は作られ続けている。まるで古代において、シンデレラの物語が世界中に広がり、たくさんの異なる亜種[ヴァリエーション]が作られたように。

 流行ったので、その結果を真似しよう。後追いしよう、では意味がない。
 「オリジナリティ」と言う語は、「origin」から来ている。そして「origin」とは、「起源」と言う意味だ。
 オリジナリティとは独自性のことを言うのなら。誰もまだ書いたことのない、後生に書かれる物語にとって元ネタとなる、原初の物語。それは喩えるなら、聖書[バイブル]であり、古典[クラシック]であり、定番[スタンダード]である。
 これこそ、まさしく歴史上世界中に唯一無二。オリジナルの物語と言える。

 語り部は神話を作りだし。神話は物語の起源として、新しいジャンルのお手本[モデル]となる。そうして作家は、真なるオリジナリティを獲得するのだ。
 個人的に珍しいアイデアを思いついたからと言って、既存の構造から脱却できていなければ。それは原典[オリジナル]たりえない。やはり単なる模倣[エピゴーネン]に過ぎないだろう。
 だからこそ。現在の物語にとっての起源である、神話の段階から作り出せるようになるために。以上までに語ってきた、構造主義の技術と知識が必要となってくるのだ。





 ……ところで、「メイド」には「さん」付けが基本ですヨ?
 大事なことなので二度(略)。

つづく
posted by はまさん at 00:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載:構造主義教室

2008年12月07日

小説書きのための構造主義(19)

前回 ・ 次回
■構造の技法に関するまとめ

 以上ずっと紹介してきた、クロスオーバーなどの構造に関する技法を使うことで、あなたは新たな物語構造を作り出すことができるようになるだろう。そして新たな構造を作り出すとは、ともすれば新たな文学ジャンルを産み出すにも等しい行為となってくる。
 複数の構造がどこで、どうクロスオーバーするのか。単層構造から複層構造にすることで、ベタの解消にもなる。また、どうした関連性を持つのか。構造レベルでのミステリやサスペンスを持たせても面白いだろう。
 発想は自由だ。

 ただし、ひとつだけ注意がある。
 ややこしくて悪いのだが。構造の技法と、ストーリーの構成技法とは似て非なるものである。
 構造では珍しくない《偶然の一致》みたいなことを、ストーリーのレベルで行ってしまうと、容易く御都合主義になってしまいまうことだろう。

参考:http://www.h7.dion.ne.jp/~p-o-v/high/kounani.htm

 例えば、ストーリー上で《偶然の一致》が発生すると、一気に物語からリアリティが失われてしまう。なぜなら、物語の中の世界とは読者にとって、現実とは独立したリアルをもって受け止められる。それが作者の御都合によってねじ曲げられると、その物語がしょせんは作り物であると意識させられることなるからだ。

 しかし構造技法においては、AとBとで構造が同じでした、逆でした、関連性がありました、と。これは「作者がその構造に注目していますよ」と言う主張・強調となる。ストーリー展開と構造とは別ものなのだ。御都合通りに話を進めるのが、作者の仕事ではない。
 そもそも、構造とは視点によって浮かび上がって来る。構造とは視点であり、眼差しである。そして作者の役割とは、視線であり眼差したることなのだ。
 ……これに関しては後で詳しく説明しますが。

 つまり構造とは、作者が作品に込めたい意図。イコール、テーマを伝えるための、最良にして唯一の手段と言っても良いだろう。
 作中で直接、読者に説教してみたり。物語の展開をねじ曲げたりなど。テーマの表出法としては下の下に過ぎない。物語はエッセイとは違うのだ。小説においては、物語故の説得力であり、感動を生み出さなくてはならない。
 そのための物語構造である。そのための、物語の元型たる《神話》のパワーなのだ。

 ……ちなみにクロスオーバー技法には、まだ問題がありまして。
 実際に使ってみれば身に染みて理解することになるだろう。クロスオーバー技法には、複数の作品を同時進行させながら、書き進めるにも等しい労力が必要となります。そりゃそうだ。複数の物語構造を扱おうと思ったら、どうしてもそうなって来る。
 おかげで、ただでさえ小説を書く作業と言うのは煩雑だと言うのに。詳細なプロットをきちんと用意しておく、と言う程度の準備では情報処理が追いつかなくなってくるだろう。
 この問題に関しては、「オブジェクト化」と言う解決策がありますので、後述したいと思います。

つづく
posted by はまさん at 00:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載:構造主義教室

2008年11月27日

小説書きのための構造主義(18)

前回 ・ 次回
■物語の構造分析(7)

《実例:8》構造的に読解してみる(7)

 さて改正してみるに当たって、前に紹介したこの葛藤例を使わせてもらうことにしよう。
構造的に、魔王にも立場があるので。魔王は別の勇者を召喚していた。しかも別の勇者とは、主人公の友人だった。主人公は友人と戦わなくてはならない。

 では早速、やってみる。
《改正例》
●起:いきなり異世界に召喚された。異世界人は誰でも勇者になれる。
●承:魔王の軍勢と戦うことになった。
●転:魔王の正体は、主人公の友人だった。実は友人も敵軍に勇者として召喚されていたのだ。
●結:魔王を倒すことができました。

 この改正例が一体、どのようなものなのか。ちょっと細かく部分ごとに見てみると、まずは《起》だが。
 主人公の青臭い悩みなぞ、どうでも良いので省略してしまおう。で、さっさと物語を進めてしまうことにする。実際のところ、この物語において「主人公の悩み」など、小さな差異に過ぎない。あってもなくても、物語の大筋には関係しない。代替可能な存在だ。だったらバッサリと切ってしまう。
 これで物語としてのテンポも良くなった。

 そして《転》なのだが、ここがエンタテイメントとしての重要点になってくる。と言うことは今回の改正におけるミソと言うことだ。
 この改正においては《転》において変容が起こる。「勇者 vs 魔王」の物語だったものが。変容により魔王を倒せば、それだけで「めでたしめでたし」ではなくなる。
 外界設定の構造的変容が起こると言うことは。すなわち、内的葛藤が発生するポイントである。そして葛藤の内容によって、物語のテーマ性と言うものは表出されるものである。
 今回なら、まさに「現実との戦い」において葛藤が起こっている。

 これで、以前の例より納得しやすい物語になったはずだ。ただし実は、ストーリーの大筋は変わっていないことに注目しておいてほしい。
 しかし「納得しやすくなったハズ」とは言っても、これは極端な一例に過ぎない。実際は例えば、描写の精度が高くリアリティがあるので感情移入できたりなど。色々と事情は変わってくる。
 だがその上で描写大好き人間から言わせてもらうと。小手先の描写をいくら積み重ねても、強度ある構造には、まず勝てない。やはり小説書きを目指す者ならば、構造主義的な思考法を使えるに越したことはないのだ。

 ちなみに、これはオマケだが。
 「夢を現実(=進学)のせいにしていた自分」と「無関係であるはずの自分たちを戦わせている異世界人」。この両者を責任転嫁の構造同士と言うことで、クロスオーバーさせるのも面白いかもしれない。

 ……と以上、長々と実在もしない作品の批評をさせてもらいました。存在しない仮定の作品を批評して、この長さなのだから。実在の作品ならば、もっと詳細な批評が可能となることだろう。
つづく
posted by はまさん at 23:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載:構造主義教室