2009年09月12日

小説書きのための構造主義(27)

前回 ・ 次回
■上位概念と本質(2)

 まずは、物事を要素に分解して、飾りとなる付加属性・些細な違い・余計なものを排除してしまう。すると後に残されるのは、大雑把な概要[アウトライン]ということになる。
 そうして共通項に注目することで、皆で共有できる公約数的な、ありふれた意見を抽出する。物事を平均値にまとめ上げてしまう。
 この作業を《抽象化》と呼び、そして出た結果を《上位概念》という。

 先程の例ならば、「マグロ、サメ」など細かな種を無視して、生息する場所のみで「海水魚、淡水魚」と大雑把にまとめてしまう。更に生息する場所すら無視することで、「魚類」という共通項を見出している。
 つまりは、この「魚類である」というのが、「メダカ、マグロ、ドジョウ、サメ」といった項目における《上位概念》だということになるだろう。

 同じように「自動車、電車、大八車、自転車」とある項目についても。細かな機能や、用途は無視してしまう。
 すると、形状として「車輪がついている」という《上位概念》が導き出される。

 ここで注意。
 《上位概念》とは字面だけ見ると、「何だか高等でスゴい概念」みたいな印象を受けるかもしれない。だが、ここまでの説明を読まれたのなら、ご理解いただけたと思う。《上位概念》とは、物事の考え方のひとつである。
 同様に抽象論と聞く、何だか的外れで主旨のはっきりしない論である、という印象がある。だが別に、抽象論とは「的外れな論」というわけではない。具体も抽象も、モチーフが同じならば、表現されるものの主旨・焦点は同じになるはずだ。

 以上は別に珍しい作業ではない。我々も日常から普通に行っている。
 例えば「木」という漢字だ。「木」の文字は象形文字として、葉っぱがふるい落とされて、枝も二本のみ。《そのものの意味》を表現するのに、過剰な部分をすっかり削ぎ落として、最低限必要な部分のみを残している。「木」という漢字は、実際の「木」を抽象化した形を移したものだ。

 というように漢字に限らず、言語を使う際に我々は、抽象化の作業を無意識的に行っているのだ。

つづく
posted by はまさん at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載:構造主義教室

2009年09月10日

小説書きのための構造主義(26)

前回 ・ 次回
■上位概念と本質(1)

 物語の構造分析とは、「要約」とはまた違うし。「ストーリーの構成分析」でもなければ、「設定の分析」でもない。
 構造分析には、構造のための作業が必要だ。

 ならば、どんな作業なのか、簡単にいってしまうと。
 物語を《抽象化》してゆくと、表面上の違いが消滅して相対的に《上位概念》として同じになってしまう。これが物語の構造である。
 ……とはいっても分からないだろうから、ひとつひとつ詳細に説明しよう。

 《相対》とは何かについては、すでに説明してあるので、もう必要ない。ならば後は、《上位概念》と《抽象化》について知れば良いということになる。
 だが実は《上位概念》が分かれば、同時に《抽象》も理解できてしまうものなのだ。そこで、まずは《上位概念》について知るとしよう。

 上位概念について知るためには、最適の問題があるので、皆さんも試しに答えてもらいたい。大丈夫、小学生並みの問題だから。
 問題。以下の項目を、2種類に仲間分けしてください。また、どのような理由で仲間分けをしたのか、説明してください。
【問題】
メダカ マグロ 自動車 ドジョウ 電車 大八車 サメ 自転車

 正解の分け方は「自動車、電車、大八車、自転車」と「メダカ、マグロ、ドジョウ、サメ」。分けた理由は、「自動車、電車、大八車、自転車」が「くるまの仲間」で、「メダカ、マグロ、ドジョウ、サメ」が「さかなの仲間」だから、ということになる。
 ……他の仲間分けができた、って人は勘弁してください。

 では、どうやってこのような分け方になったのだろうか。答えが出るまでの過程を丁寧に辿ってみよう。
 まず「自転車、大八車」は自分で動かす車である。「自動車、電車」は動力のある車である。「メダカ、ドジョウ」淡水魚である。「マグロ、サメ」海水魚である。

 こうして4種類の仲間分けが出来た。だが問題文には2種類に仲間分けしろ、とある。4種類では、まだ多い。そこで更に分け方を大雑把にすることにしよう。
 自分で動かしても、動力があっても、同じような車がついている。だから「自転車、大八車」と「自動車、電車」も、「くるまの仲間」である。
 海水に棲んでいても、淡水に棲んでいても、魚類と考えれば似たようなものである。だから「メダカ、ドジョウ」と「マグロ、サメ」も、「さかなの仲間」である。
 と、これで2種類に仲間分けが行われました。

 では以上の作業でいったい何が行われたのだろうか。

つづく
posted by はまさん at 23:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載:構造主義教室

2009年04月27日

小説書きのための構造主義(25)

前回 ・ 次回
■相対と絶対(4)

 書き手には相対と絶対、両方が必要である。ところが人間、やはり自分にとって都合の良いものしか見たくないもの。絶対は絶対でも、「何があっても揺るがない確たる信念」なんて、誰でも持てるものではない。そこで皆どうしても、自分にとって都合が良いだけの、「安っぽい絶対的」なものの見方になってしまいがちだ。
 ましてや、他人の視線まで気にしなくてはならない、相対的なものの見方など、誰にでも出来るというものではない。しかし構造主義的な思考には、相対的な視点こそが必要となってくる。
 我々は普段から、相対的なものの見方を意識しなければならないのだ。でないと構造主義的な思考など、身につくものではない。

 構造主義的な思考とは自らが、多くある中の、ありふれたひとつに過ぎないと知ること。パターンを見抜くことだ。
 そのためには、《多く》の中で埋もれた、もっとも重要な《1》を見つけなければならない。そして《1》を見抜くには、《多く》の大半を構成する、重要ではない些細なその他を排除する作業が必要だ。

 すると相対的なものの見方では、相手の立場になって考えるので。自然と、自らが《多くの中の1》に過ぎないと知ることができるだろう。
 だが絶対的なものの見方では、自分にとって大事な《1》しか見えなくなってしまう。すると些細な差異に囚われて、その背後にあるパターンを見抜けなくなってしまうのだ。

 というわけで次は、相対的なものの見方を踏まえた上で、《大事な1》を見抜くための発想が必要となってくる。
 今まで長い前振りで申し訳なかったのだが。このための発想……《上位概念》と《抽象化》を身に付けさえすれば、今度という今度こそ、物語の構造とは何なのか。理解できてくるだろう。

つづく
posted by はまさん at 23:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載:構造主義教室

2009年04月26日

小説書きのための構造主義(24)

前回 ・ 次回
■相対と絶対(3)

 ならば相対的と絶対的で、どうして違いが起こるのか。どこに違いが存在するのか。それは《比較するもの》と《比較されるもの》との関係により生じる。

 絶対的なものの見方の場合、《比較されるもの》と《比較するもの》の両者は固定されて動かない。固定されているがゆえに《絶対》なのだ。
 そうして《比較されるもの》が変わることもなく、また《比較するもの》から見える光景も変わらなければ、判断が変わろうはずもない。
 ただしその代わりに、《比較するもの》は目の前にある《比較されるもの》しか見えなくなってしまう。つまりは、視野が狭くなるということだ。

 一方、相対的なものの見方の場合は、《比較するもの》と《比較されるもの》の両者は常に動いている。
 そのため、確固として揺るがない自分だけの信念、などというものは持ちづらくなるだろう。もしかして、自分が何を見るべきなのか、失ってしまうことすらあるかもしれない。
 だが、いろいろな立場からものを見ることはできる。結果、視野は広くなる。

 両者はちょうど、天動説と地動説の関係に良く似ているかもしれない。自分は動くことのない天動説が、絶対主義であり。自分も天の中で動き回る一点に過ぎないとするのが、相対主義ということだ。
 見るものは同じだったとしても、そうした世界観の違いによって絶対・相対の違いが生じるのである。

 余談だが「天動説と地動説」といって、思い出した方はいないだろうか。絶対・相対の関係は、一人称と三人称の関係にも良く似ている。
 一人称は焦点子の主観による意見なので、感情移入しやすくても説得力を持つのは難しい。すなわち絶対主義的な文章となる。
 三人称は他人の観察による報告となるので、客観的な事実に基づいた、相対主義的な文章となりやすいのだ。

 ところで以上を例えると。小説家になる夢を抱いている、中高生くらいの少年がいたとしよう。彼は進学を嫌がっている。大人たちの反対を押し切って、小説家になる勉強をするためだ。だが彼自身はまだ、自分で作品を一本も書き上げたことはないし、普段から文章を書きもしていないとする。
 絶対的なものの見方からすれば。小説家になりたいという夢を抱いている、自分の考えこそが最も大事である。自分はきっと小説家になれるはずだ。と、こうなるだろう。
 だが相対的に考えると、自分にとって絶対なる「小説家への夢」が、他人である大人たちにも大切なものとは限らない。自分の夢を叶えてくれる人なんて、世の中には誰もいないわけだ。それに、進学を勧める大人たちにも、それなりの事情があるだろう。彼らは少年が夢を叶える、その困難さを知っているのかもしれない。
 では、もしこの少年が、大人たちの立場を知り、自分を心配してくれていると知ったら、どうなるだろう。また自らの夢見る姿が、他人にとってはどうでも良い、《よくあるパターンのひとつ》に過ぎないと知ってしまったなら、どうするだろうか。どのみち、夢見てさえいれば幸せでいられた時期は終わってしまうに違いない。
 しかし、その上でなお夢を諦めず。自分の願望と、大人たちの論理との《すりあわせ》を、努力という形で続けていれば。いつかは再び、他の誰に何といわれようが揺るがない、自分だけの《絶対》なる夢を取り戻すことができるだろう。

 そして物語を分析する上でも、同じように。他人の作品で感動しましたという《絶対的》な視点に留まっているだけでは、何も分からないし、何も身につかない。それでは単なる、いちファンと変わらないからだ。
 自分もその作者と対等の、書き手としての目線で《相対的》に、物語を読まなくてはならない。その上で、他人に流されない、確固とした自分の意見を持てるようになる。
 相対と絶対、どちらかだけではいけない。書き手には両方の視線が必要となるのだ。

つづく
posted by はまさん at 23:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載:構造主義教室

2009年04月23日

小説書きのための構造主義(23)

前回 ・ 次回
■相対と絶対(2)

 ところで《相対主義》の対義語として、《絶対主義》と言う語が。《相対的》の対義語として、《絶対的》と言う語がある。
 こちらの《絶対主義》とか《絶対的》と言った語の意味とは、どのようなものなのだろうか。
【絶対主義】
哲学で、絶対者または絶対的な真理や価値規準を認める立場。アブソリューティズム。
(Yahoo!辞書より)

【絶対的】
他の何物ともくらべようもない状態・存在であるさま。「―な信頼を得る」「―に有利な立場」
(Yahoo!辞書より)

 例えば「俺は歌が上手い!」と思い込んでいる人がいたとしよう。ならば、その「上手い」と言う基準はどこにあるのか。

 相対的な判断がなされている場合。「これこれこう言う大会で賞を貰った。だから大会に出たが賞を貰えなかった、もしくは貰えない技量の人間より、自分は上手である」と言うように。具体的な比較例あっての判断だと言うことになる。
 相対的なものの見方において、他者との比較はとても大事だ。なるほど、これなら確かに一定以上の技量を持っていると判断することは可能だろう。

 対してこれが絶対的な判断である場合。「知り合いが褒めてくれた」とか「自分で思い込んでいる」から、「自分は上手である」と言う判断が下されることになる。
 絶対的なものの見方において、他者との比較は、ほぼ行われない。判断の基準は、自分の中にしかない場合がほとんどである。
 だが論理学的に、あらゆる真理とは反論可能なものである。世界上のどの場所でも、歴史上のどの瞬間でも、不変となる真理など存在しない。人によっての事情と立ち位置で、価値観というものは変わってくる。《絶対》の価値とは、個人的な思い込みに過ぎないのだ。
 ゆえに、どうしても《絶対的》な判断は、説得力がなくなってしまいがちになる。

 ならば《絶対的》なものの見方とは、間違っているのかというと、そうでもない。
 「歌が上手」な理由が自分の印象だけだと、「そりゃないだろ」と思われるだろうが。しかし、このセリフをいった人が例えば、誰しもが認める高名な世界的ミュージシャンであったなら、どうだろう。きっと誰も反論できず、正しく思えてしまうのではないだろうか。
 《絶対》とは、それはそれでひとつの見方に過ぎないのだ。

 もちろん《相対的》であるからといって、必ずしも正しくなるというわけではない。相対的ゆえに他人の意見に流されて、間違ってしまうこともあるだろう。
 不変なる《絶対》が存在しないように、絶対の《相対》も存在しない。《相対》も《絶対》も、説得力の有無に差はあるだろうが。両者間に貴賤の差はないのだ。

つづく
posted by はまさん at 23:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載:構造主義教室