2013年03月05日

古い自分を壊すということ


 書き手仲間の子が「さあ長編を書くぞー」と息巻いていたのに、途中まで書いて詰まった。そこへ創作観が根本から変わるほどのレベルアップをしてしまった。
 すると、さあ大変。今まで書いてきたことが陳腐に見えてくる。いったい自分は、このまま書き続ければ良いのか、今までの原稿を破棄して新しい作品を書き出せば良いのか。その子は悩んでいるわけです。
 こういう経験、皆さんにも似たものがあるのではないでしょうか。例えば初歩的なものなら、作品を書いている途中で他の小説を読んだら、影響されてしまったとか。

 『拳児』という中国拳法漫画に、こういう話が出てきます。一度固まった陶器人形を作り直そうと思ったら、粉々にするしかない。それと同じで、ある程度の修行ができているのに新しいものを手に入れようと思ったら、イチから修行をやり直す覚悟が必要だというのですね。
 努力したからこそ手に入ったものを、あえて手放さなくてはならない。努力してしまったがゆえの苦悩ですねえ。

 自分自身を根本から変えてしまうような考え方。努力によってしか手に入らない、自分を形作ってくれるもの。
 こうしたものをボクは、思想や学説などの基礎・基盤・根拠・土台・よりどころという意味で、《ファウンデーション》と呼んでいます。

 結論からいうと、新たな《ファウンデーション》を手に入れるには、古い自分を壊すしかありません。つまりは古い《ファウンデーション》が無駄になります。
 今までやってきた努力が古臭い無駄なものとなる。それは苦しい作業です。いってみれば前の会社で出世した結果、上司として部下を顎でこき使ってきたのが、また新入社員からやり直すようなもの。
 今までと同じことをやり続けていれば成功率は高いままなのに。また未熟で失敗ばかりするところから始めなくてはならない。

 だが古いものを持つからこそ、新しいものを手に入れられる。
 下位スキルも手に入れてないのに、いきなり高位レベルの《ファウンデーション》を手に入れることは不可能です。
 書き手として成長を続けるつもりならば、古い自分を捨てる痛みに耐え続けなくてはならない。

 ところが考えてみると、新しい《ファウンデーション》を手に入れるために、古い努力を捨てなくてはならないとして。その古い《ファウンデーション》はどうやって手に入れたのか。それはやはり、イチから積み上げたものに違いないはず。努力した経験を持つということでもあります。
 だからボクは信じている。
 一度でも努力できた人間は。自分で自分を変えられるのだと知った人間は。新しい《ファウンデーション》を手に入れ、人生の全てが変わって見えるかのような快感を覚えてしまった人間は。やはり、再びイチから努力し直すこともできるはずだと。
 逆に、一度も努力をしたことのない人間を、ボクは信用しない。

 ちなみにボクは《ファウンデーション》経験なら、もう何度も味わっているので慣れっこです。「あちゃー、また新しいファウンデーション来たかー」って程度の感懐しかない。
 でも流石に社会人でじっくり人生について考える時間もとれませんし。今じゃ効率的な修得法をやっています。
 そのための方法は主にふたつ。その1、手書きでノートをとる。その2、ともかく反復練習。
 どのみち地道でキツい作業にはなりますが。《ファウンデーション》が自分の土台として機能するためには、体感的に慣れるしかありません。苦労が近道。

 また、例えば「親が憎い」とか「自分が病気だと認めたくないから、病院へ行きたくない」という《自分》だって、打ち壊すべき古い《ファウンデーション》ということになります。
 新しい《ファウンデーション》の入手作業とは、自分で自分を作り直す。拒否感を受け入れる。既成観念を壊すということ。小説を通して《ファウンデーション》経験に慣れてしまえば、きっと人生が豊かになりますよ。
posted by はまさん at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 文学的(修行・学習)

2013年01月27日

短編研究ノート(一部)公開

 さて、ボクが短編が書けるようになるまで、それなりの修行と研究をさせてもらいました。その修行中に作っていた、短編研究ノートをサクッと公開しちゃえー。
 ただし作法書から引用した箇所もかなりあるのですが……どこからどこまでが引用なのか忘れてしまいました。申し訳ない。

 ですから、この研究ノートを読むに当たっては「はまさんって、こういうノートを取りながら小説を書いているんだ」という。いわば勉強法の参考になればと思っています。なので文句も質問も受け付けない!
 皆さんは引用元もメモしときましょうネ。

 ちなみにボクが取った短編研究ノートは全部で400字詰原稿用紙五十七枚分。そのうち公開するのは、当たり障りのない二十枚分だけにさせてもらいます。つまりはコレで三分の一。
 残りは……ちょ〜っと公開する勇気が出ない、技法というには危険な内容なので。墓まで持って行かせてもらいますから! どのくらい危険かって……ソコの内容があれば、公開した部分は不必要になってしまう程度の威力です。ええ。

 というわけでボクにとっては一般公開しても差し障りない程度の内容で申し訳ないのですが。皆さんのお役に立ちますように。そして、いつの日かこの内容に、あなただけの技法を書き加えたノートができましたら、ボクに読ませてくださいね(笑)続きを読む
posted by はまさん at 23:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 文学的(修行・学習)

2011年05月03日

小説技術メモ/駄作を書く可能性

 プロ作家でも駄作を書く時があるのに、努力という言葉は聞き飽きた。どーでもええわ。
 そんなことをいわれました。

 ハハッ、ワロス。

 書き手の実力には、下限と上限とがあります。
 プロが書いてしまう駄作とは、つまりは実力を全て発揮できなかった結果なのですね。人間だもの、そんな場合もある。
 だが平均値では結局、商用に耐えるクオリティの作品を書くのがプロ。しかも多くの人が関わることで、下限を底上げしている。そうして駄作だけは出版しないようになっている。あって凡作まで。
 だからプロは凡作を書く可能性はあるが、それと同じくらい、名作を書く可能性も持っているわけです。

 ちなみにこの上限と下限の幅が狭ければ、安定した作風と評される代わりに、突発的な名作も出にくくなります。逆に広ければ、名作を出すこともあれば凡作も増え、作風が不安定だと評されることになると。
 そして初心者はもちろん上限も下限も低く設定されています。すごく頑張っても凡作まで。ほぼ全てが駄作になるでしょう。もちろん名作が書かれることは絶対にありません。

 だからね?
 努力しても駄作を書いてしまうんじゃないか、なんて心配。初心者の内にする必要はありません。どうせ名作を書ける可能性なんて、ないんだから。宝くじ買っていた方がまだマシです。
 そして、こんなことを心配しているということは、人生で今まで何の努力もしなかった証拠です。それをね、他人の失敗を理由に、努力しない自分を自己弁護しないでください。

 そんな人の作品を読まされる、読者さんに失礼だから。
 ああ、今回はさすがにイラッと来てしまった。
posted by はまさん at 23:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 文学的(修行・学習)

2011年03月22日

おふねの本をたくさん読みました

 昨年の夏から、仕事が忙しくなっていました。そのため文章を書く時間が削られていたのですが、その間にも何かできないか。工夫を重ねた結果、船舶に関する本をたくさん読みました。
 ごく短期間で。

 結果、造波抵抗とか、消波装置の原理とか、海運システムの基本とか、帆船の挙動くらいは憶えました。おかげでボクは海洋冒険モノが描けるようになりました。
 一ヶ月前までは、船舶に関する知識なんて持っていないも同然。もちろん小説として描くなんて無理だったのに。ごく短期間でボクは小説の手持ちジャンルが増えた、ということになります。

 しかも、この船舶知識の勉強ですが。モチベーションがゼロの状態から開始しました。小説に書きたいから調べた、のではないのです。船舶への興味なんて、さ〜っぱりありませんでした。
 しかし、こうして調べたことにより、ボクの中では船舶小説を書くモチベーションが生じました。書きたいから調べたのではなく、調べたから書きたくなった。自分で自分のモチベーションを生み出せるようになったのです。

 ですから、船舶知識はもちろん小説書きとしての武器になりますが、ボクの真の狙いは「そこ」にはありません。今回ボクが身に付けた真の武器とは、船舶知識の勉強を通じて得た、短期間での学習効率の方だということになります。
 努力するための努力ができるようになった、というところでしょうか。
 書き手として、手持ちの武器が不足しても、すぐに補充できる。戦争に喩えるなら、豊富な輜重があるようなものです。命中率も大事ですが、そりゃあ弾丸を撃ちまくれる方が有利なのに間違いはない。

 そもそもボクって、ラノベ作家に憧れて小説を書き始めたような人間ですから。良くあるパターンでしょうけど。だからこそ、「自分が本当に書きたいもの」なんて持っていなかった。
 更にボクは書き手として、自分の才能を一切信じていません。経験上、ボクが天然のままで書いた作品に、ロクな結果がない。それゆえ技術にこだわっているのです。
 そんなボクが「本当に書きたいもの」を獲得するには、勉強し続けるしかない。そんな書き方もあったって良いでしょう。
 というよりも……そのようなスタイルを獲得するためにも。この能力が是非とも欲しかった……!

 ちなみに今回ボクが修得したのは「本の読み方」ということになりますが。ならばその、読むべき本はどうやって集めるのか。ボクは大学の卒論で鍛えられました。大学図書館地下、男女のダンジョンのような閉架をウロウロしたもんです。
 だからちょっと……感覚と口伝でしか伝えられない部分があって、ブログではお教えできないのが残念です。ボクとOFF会などでリアルで会ったことのある人ならば、本屋巡りにつきあわされたから、わかるはずなのですが。

 しかしボクも効率的な勉強法を身に付けたとはいえ、まだまだ改善の余地がありそうです。
 例えば、記憶を固定化する作業。つまりはノート作りであり、データベース作りですが。まだ手間暇をかける以外の手段を持っていない。
 今後の課題ですね。

posted by はまさん at 00:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 文学的(修行・学習)

2011年03月04日

日本における創作人口の配分について

 ある方が、調べてみたら創作歴10年という人が大勢いてビビっていた、という話をしていたのです。でもボクはその驚きに対し「いや普通だろ」と返しました。
 どうも日本人は創作が好きな民族のようです。記紀の昔から貴族ではない、農民の作った歌が残されているくらいだし。江戸時代すでに識字率が高かったのは、広く読み物が好まれていたせいだというし。現代だって他の国では文盲率が高いので代筆屋が珍しくないのに、日本では女子高生がケータイ小説を書いていたりするのですからね。

 今だってコミケへ行って御覧なさいな。何千人という創作家が見受けられます。どうせコミケなんてエロだけだろ、なんて考えないように。
 ボクは良く「文芸系」と呼ばれるジャンルのサークルを好んで回っていましたが、アレも凄いですよー。あるトコロなんて、大河ファンタジー小説を書き続けて、全50巻くらいあったりする。どんだけの年月と情熱を捧げているんだと。
 更には10年や20年どころではない。以前ボクがお会いした方は、アマチュアとして俳句を書きため続けて50年。今度やっと自費出版で句集を出すことになりましたとかね。
 文学に限らず。絵も音楽も、ともかく全ジャンル的に、日本では創作人口が多いようです。

 ところでスポーツでは競技人口の多さが、トップの高さも決定づけているようです。
 だいたいが競技人口の配分というのが実力順に「△」みたいなピラミッド型になっている。底辺のすそ野に素人が大勢いて、上の実力になるに従って競技者はふるい分けられて少なくなり、頂点に一握りのトップアスリートがいる。注目されるのはトップだけだが、すそ野が広くないと、頂点も高くなれない。
 だから愛好者の多い日本は野球が強いし。普段から子供たちが遊んでいる南米ではサッカーが強い。
 これはもう、国策ではどうにもならない。民族性であり文化の問題になるのでしょうね。

 そして創作人口の多い日本では、もちろんエンタテイメントの分野で世界的な評価を得ています。しかし、創作をやっている人なら薄々お気づきになっているでしょう。創作における人口配分はどうも独特なバランスをしているようです。

 まずは初心者の広いすそ野がある。これは分かる。次に中級者の厳しい上り坂がある。ここまでも分かる。ところがプロの域が見えて来たらと思ったら、そこには長大で高い壁と、狭い門があるのだ。更に上へ行こうにも行けず、門の前にはプロではないというだけの実力者たちがひしめき合う結果となる。その様子はまるで魔物たちが闊歩する人外魔境だ。
 ゆえに日本の創作人口配分は「△」ではなく「土」のかたちをしている。
 ちなみにこれがアメリカのような外国なら「二」のかたちをしている。地上と空中庭園とに分割されている。プロしか創作しない。そもそも職業創作家でないと、創作なんてしないものなのだ。プロでもないのに創作活動を続けているような人は、他の国だと変わり者扱いをされる。

 だから日本において「プロではない創作家=下手だからプロになれない」のかというと案外に違う。創作を仕事にしなかっただけとか。本業が忙しいからプロに専念できないとか。家業を継がなくてはならないとか。事情があるからプロ創作家にならない、という人は大勢いる。実際、プロになったとしても兼業作家を続けている人は多いのだし。
 だから「魔物」といってもプロ以下とは限らない。プロ同然、もしくはプロ以上の実力を持ったままアマチュアでいる「魔物」は少なくないという。日本は不思議な国だ。

 更にこの「魔物」たちは人口密度が増すことで、自分たちの居場所を広げようと、門ごと壁を上へ上へと押し上げている。だから初心者のすそ野から壁までの道程は年々遠くなっている。初心者にとって、はた迷惑な話だ。
 じゃあ、この壁にまで辿り着いたとして。どうすれば魔物の群れを突破し、壁を越えられるか。
 まず良くあるパターンなのが、「俺なら他人の思いついていないアイデアさえ閃けば、いつだってプロデビューできるぜ」という人。これは、まず無理だ。
 なぜなら人間、誰もが似たようなことを考えてしまうもの。壁に抜け穴がないかと探したところで、その抜け穴の前は、魔物たちが余計に集まっているだろう。ただでさえ人口密度の酷い人外魔境で、抜け穴の前は激戦区となっている。

 そもそも「俺ならアイデアという抜け穴さえ発見できれば、いつでも」なんて考えが甘い。そんな願望をまだ持っているとか、その人がまだ魔境にも入ってもいない証拠だ。大体が、周囲に凄い実力者が揃っていると人間、謙虚になってくる。だから魔物ほど謙虚だ。逆に初心者ほど、プロになれるという自分の夢を信じて疑わず、自慢ばかりしたがる傾向にあるようだ。
 だったら、どうすれば魔境を越え、壁をも乗り越えられるのか。腕っ節で魔物たちをかき分けるしかない。強ければ越えられる。弱ければ負ける。単純な話だ。だから魔境に入ってからの成長は、今までの修行時代に比べて極端に遅くなる。
 でも突き進むしかない。魔物たちは謙虚になるとはいっても、遠慮はしないものなのだ。

 ゆえに、壁を越えてプロの領域に入れたとしても。そこは相応の腕っ節を持っているがゆえに、行き着けた者たちの巣窟。
 さっきまでいた場所が餓鬼修羅畜生の群がる人外魔境の荒野だったとすれば。プロの領域はハルマゲドン巻き起こる天上界だ。行くも留まるも、どのみち地獄しかないという話である。

 ところで、この人外魔境にそびえる壁とは何なのか。
 芸事の修得過程を表現するのに「守破離」という言葉がある。「守」の段階をゴールするのは、面倒でも案外と簡単だ。自分を導いてくれる他人がいるのだから。問題は、独自の道を拓く「破」からだ。この先は、もう誰も自分を導いてくれない。前へ前へと進めるという保証すらない。だがココを越えないと、創作家は独自の作風を打ち立てられない。
 なので漏れなく全ての創作家は、守から破へと至る途中で苦労することとなる。このことをボクは「守と破のあいだにある壁」と呼んでいる。「人外魔境の壁」の正体とは、つまり「守と破のあいだにある壁」のことなのだ。
 自分だけの作風を打ち立て、独自の流派を興せるだけの人間なら、いつだってプロになれるっちゅう話ですよ。……なのにプロ以上の実力を持ちながらアマチュアでいる人がわんさといるというのは、日本って本当に不思議な国です。

 しかし、こうした豊かな土壌を持っているからこそ、日本では豊かな創作の恵みを得られている。
 例えばボーカロイドのブームだってそうだ。あれは、ボーカロイドが登場したから、いきなり優れたミュージシャンが誕生したのではない。ずっと昔から音楽をやり続けてきた人口が多いから。優れた技量を持った人が、簡単にピックアップされるシステムが出来た時、改めて注目されるようになったというだけの話です。
 そう考えると、いつでも外部からプロの世界がひっくり返される可能性を秘めている。日本って面白い国だと、つくづく思いますよ。
 わけわからん。
posted by はまさん at 00:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 文学的(修行・学習)