2007年07月16日

いわゆる「攻撃魔法」を描写してみようか:5

前回:http://blogs.dion.ne.jp/hamalog/archives/5899294.html

 ファンタジーの物語に出てくる。いわゆる「魔法」なんてものは結局、フィクションの中にしか存在しない非現実の存在です。ならば非現実の存在だから、描写は不可能だとして、描写をしなくでも構わないのか。
 いいえ、そんなことはありません。
 浦島太郎の童謡に「絵にも描けない美しさ」と言う歌詞が出てきますが。ボクはこの歌詞が大嫌いなんですよね。

 表現者に、表現できないものがあってはいけない。また表現者が、表現できないと敗北宣言をしてはいけない。
 もちろん描写が困難なモチーフがあるのは、仕方がないとしても。小説書きが「描写不可能」だと宣言するのは、表現者としての逃避です。と共に、小説と言う表現方法への侮辱にも近い。
 そのような、小説をバカにした小説を読むと、すごく不愉快になります。
《作者が逃避した文章の例》
・「言葉に出来ないほど」
・「わけが分からないうちに」
・「気が付くと」
・「いろいろあって」

 非現実の存在だからこそ、読者が思わず信じたくなるような、もしくは信じずにはいられないような、描写をしてやる。読者が物語内の世界をリアルにイメージする、とっかかりを作ってやる。
 魔法には魔法だからこそのリアリティが存在する。そのための描写です。

 しかし、そんな描写が果たして誰にでも出来るものなのか。描写に使う具体例を考える作業なんて、大して難しくないとボクは言いましたが。それは本当なのか。
 ちょっと試しにやってみるとしましょう。

 「攻撃魔法」を描写するには、「攻撃とダメージ」について具体的に説明する必要があります。しかし「攻撃」の描写は、実例としては、どうも不適当です。と言うのも、魔術とか陰陽術とか超能力とか。「攻撃」の仕方は、世界設定によって違ってきますから。
 ですから今回は、「ダメージ」の描写だけをやってみましょう。実際、具体例の発想が追いつかないのなら、攻撃かダメージ。どちらかだけでも描写すると、読んでいる方はイメージがしやすくなるはずです。
 そして一応、シチュエーションとしては、「大爆発が起こって、家屋が破壊されるシーン」と言うことにしましょう。

 もう、ここまで来ると簡単ですね。では、家屋が破壊されている様子をスローモーションで「説明」してみましょう。
「爆発が起こる。小屋をまず衝撃波が襲う。窓ガラスが割れる。屋根瓦が吹き飛ぶ。外壁がめくれ上がる。部屋の中が露わになる。部屋の中の、床が、内壁が、調度品が、爆風で飛び乱れ荒らされる。次いで熱波が舐めるように襲う。中には瞬時に炭化して粉々になって、灰になって消え失せるものもある。かろうじて跡に、太かった柱だけが焼け残る。爆発の衝撃が治まると、発火点を超えたものが、次々と激しい炎を上げる。周囲の光景は炎に囲まれる」

 以上、専門知識を持っていなくても、きちんとモチーフを具体的に想像すれば、考えつく程度の内容。それを、順序立てて、詳しく説明しただけです。が、これでも描写量としては多すぎるくらいでしょう。すると、描写の具体例を考えるのに、過剰な知識は不必要だと言うことになります。
 とこのように、非現実のファンタジー世界が相手も、描写のやりようは幾らでも見つけられるものなのです。



 ボクが考えるに、ファンタジーの世界設定とはきっと、「子供のごっこ遊び」のようなもの、なのではないでしょうか。それも、「僕の考えたヒーロー」と「僕の考えた必殺技」を考えて遊んでいる、子供のヒーローごっこ。
 つまり、ファンタジーの世界設定なんてもの。子供にでも出来る、幼稚なごっこ遊びと何ら変わらないものである、と言うことをボクは言いたい。

 実際のところ。「エターナルフォースブリザード。効果=相手は死ぬ」と言うのと、「ライダーキックを受けたら、怪人は死ななくちゃいけないんだぞー!」と言うのと。両者に大した違いはないでしょう。
 ならば、子供には出来ない。大人にしか出来ない「ごっこ遊び」とは、どのようなものなのでしょうか?

 子供がヒーローごっこで遊ぶのは、自分が楽しむためです。自分さえ楽しい夢を見ていられたら、それで構わない。
 しかし大人は、新たなヒーローを現実に作り上げ、子供たちに夢を見せるのが仕事です。ですが不特定多数の他人に夢を与えるには、その夢を信じられるだけの「何か」が必要となってきます。
 そのために大人が作るヒーローには、描写によるリアリティと、エンターテイメントな発想。すなわち、プロとしての仕事が求められてくる。

 ですから、描写を伴わない世界設定作りは、「子供のごっこ遊び」と変わらない。自分だけが楽しめば満足だと言う「ごっこ遊びの楽しみ」と、多くの人に楽しんでもらいたいと言う「ものを作る喜び」とは違うのです。
 ちなみに、この「世界設定はごっこ遊びである」と言う理屈で考えると。世界設定のための資料とは、ごっこ遊びを補助するための、オモチャである、と言えなくもありません。
 本来ならばファンタジーの世界設定とは、物語内に独自のイメージを積み上げて、新たな世界を作る作業のことを言うはずなのですがね。

 確かにヒーローの存在なんて、現実のものではない。ファンタジーの存在です。しかし大人には、大人にしか出来ないヒーローごっこがあるのではないでしょうか。そして大人になら、子供には出来ない仕事によって、本物のヒーローを目の前に連れてくることだって、可能だと思うのです。
 子供に出来るのは、夢を見るだけ。夢を現実に叶えられるのは、本当は大人だけですよ。

 既存作品を読んだ印象だけで、何か単語を並べてみても、それは小説にはならない。それは、「小説のまねごと」・「小説ごっこ」に過ぎません。
 「小説を書く」とはきっと、イコール、描写することであるとボクは信じているのです。


おわり
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2007年07月12日

いわゆる「攻撃魔法」を描写してみようか:4

前回:http://blogs.dion.ne.jp/hamalog/archives/5859911.html

 またこれは別の話になりますが。ゲームクリエイターに関する本で、ゲームを作る際に必要な、企画書の書き方に関する説明からの引用です。
ジャンル
 企画したゲームのジャンルを説明します。簡単な話のようですが、勘違いをしている人がたくさんいます。

悪い例 『ファイナルファンタジー[みたいなRPG』

 ゲームのジャンルとして既存のゲームのタイトルをそのまま書くのはあんまりです。最初から丸ごとパクるつもりがあったとしても、です。

良い例 シネマティックRPG

 映像要素の強いRPGでユーザーの関心を引くという意図が分かります。
『企画屋稼業―超クソゲー外伝』より引用

 結果として、何か既存の作品に似てしまうのなら仕方がないでしょう。しかし作品を書く前から、既存作「みたいな」作品を目指してはいけない。
 そのような行為は、書き手にとって最も恥ずかしいことです。最初からオリジナリティを放棄していては、その作品を書く意味がない。他でもない、あなたにしか書けない作品を手にする気がないのなら。小説なんて書かずに、既にある面白い作品を読んでいれば良いじゃないか、と言うことになってしまいます。
 そして、観念・思い込み・印象だけでの物作りとは、自分でも気が付かないうちに、単なる真似っ子になってしまっているものです。

 自分がイチからキャラクターやストーリーを考えて作り上げた、オリジナルの物語を、《一次創作》と呼びます。対して、既存の作品からキャラクターやストーリーを借りて、自分なりのアレンジを加えて作った物語を《二次創作》と言います。
 別に二次創作を否定する気はありません。二次創作は二次創作で、創作活動として素晴らしいものは多く存在します。ただ、既存フィクションの二次創作を、自分が独自に作り上げた一次創作だと主張してはいけない。

 しかし、既存作品の影響を受けてしまうのは仕方がないことでしょう。創作物とはどこかで、既存作品の影響をどうしても受けてしまうものです。
 自分では一次創作のつもりで書いたのに、読者からはパクリ、もしくは二次創作だと評価を下されることもあるでしょう。
 ですが既存作品の影響を受け、なおそこにどこか、自分にしか描けないものを出そうとする。既存の作品に対して、どこか一点だけでも越えてみせる。最初からそのような、オリジナルを目指す気概を持っているか、持っていないか。では差に大きな違いがあります。
 そして、大きな目標とは最初から立ち向かおうと言う意志がない限り、越えられることはありません。「何々みたいな作品」とか「誰々みたいな文章を書きたい」と言っている時点で、あなたがその目標を越える可能性はゼロになっているのです。
《ベタな思考の例》
・RPGみたいな作品
・奈須きのこ作品みたいな能力のキャラ
・戦闘シーン
・特殊能力
・死亡フラグ
・「わたし普通の女子高生だけど実は陰陽術師なんだ!」

 でもそんなオリジナリティなんて、御大層なもの、どうやれば出せるのか。本当は大して難しいことではないのですけどね。
 まずは既存の作品から受けた印象だけで、書くことをやめる。自分の中にあるステレオタイプから脱する。
 つまりは、描写しろと言うことになります。描写とは作者が、物語内にもうひとつの現実を築き上げる作業です。
 小説を書く作業とは全てが、まず描写から始まると言っても良いくらいでしょう。

 描写にどのような具体例をイメージするかは、時と場合によって流動的に変わるものです。しかし、そうやって絶えず変わるからこそ、自由な発想が求められる。
 「どうやって描写すれば良いのか、考え方が分からない」と言う悩みとは結局、最初から自分で自分の発想に制限を加えているから生じるのです。「……みたいな作品」だとか「……のようなシーン」など。そんな、既存作を参考にした「せかいせってー」なんて、あらかじめ決めておいても、描写など出来るものではありません。
 そのような設定ならむしろ、決めていてもイマジネーションの邪魔になるだけです。

 小説書きに「……だから」とか「……でなくてはいけない」など。「お手本通りに書かなくてはいけない」と言う決まりは存在しません。お手本なんてない。ましてや既存作品などと言う、他人の意見に頼ったところで、正解は存在しません。それ以前の問題として、既存の作品に頼っていては、書きたいことに、イマジネーションが追いつかない。ステレオタイプの発想では、描写に限りが出てきます。
 だからこそ、自分で自分の発想に枷を与えてはいけない。その「枷」が正解である保証はどこにもないのだから。

 「犬が人を噛んでもニュースにはならないが、人が犬を噛めばニュースになる」と言うことわざがあります。既存のお手本通りに、当たり前の考え方をしても、価値ある発想は出来ません。
 また、ブレインストーミングと言う発想法をご存じでしょうか。ブレインストーミングとは、数人で自由に意見を出し合う、と言う発想の技法です。ただしこのブレインストーミングには、いくつかの決まり事があります。まず、質より量を重視する。そして、どんなに荒唐無稽な内容でも、お互いの意見を批判しない。そうすることで、まずは思考の多様性を獲得している。
 とこのように発想とは大抵、既存の枠組みを壊せば壊すほど、豊かになるものです。

 別に、アニメやマンガなど、既存作の影響で小説を書いたって良いのです。例え、元ネタがゲームであったとしても、モチーフを鮮明に思い浮かべることができるのなら一向に構わない。
 だから実は、描写の具体例をたくさん用意すること自体は、そんなに大切ではないのです。既存の「当たり前」と言う思考の枠を外せば、描写の具体例なんて幾らでも思いつきます。

 とにかく、まずは自分の中にあるステレオタイプを意識してください。意識したら次は、その思考の枠を崩す。そうしたら、ようやく的確な描写を目指す段階になります。
 でないとファンタジーなんて小説で書けるものではありません。





参考図書
posted by はまさん at 00:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 幻想的

2007年07月05日

いわゆる「攻撃魔法」を描写してみようか:3

前回:http://blogs.dion.ne.jp/hamalog/archives/5827367.html

 しかし的確な描写を目指そうとすると、ひとつの不安が浮かんできます。
 描写に使う具体例が今度は逆に多すぎても、邪魔になるのではにか。まあ確かに多すぎても、どうせ使わないだろうしね。
 ならば具体例を多く用意する必要はないのか。引いては、描写なんて必要ないのかと言うと。それは大きな間違いです。

 これは、分かりやすい文章を書く際の初歩的なコツなのですが。説明不足は致命的だが、過剰な説明は読み飛ばせば良いだけの話。初心者が書く独り善がりな文章はまず、自分では良く分かっているだけで、説明不足の文章になっているものです。
 それならばと急に慌てて文章量を多くしようとしても、なかなか巧く行くものではありません。多いものを減らすのは簡単だが、元から少ないものを増やすのは困難である、とそのようなものなのです。
 「多くの具体例を考えろ」とボクが言っているのには、日頃からの練習、と言う意味合いもあるからです。

 もちろん、情報の不足を逆手に取った小説技法もあるにはあるのですが。どうせ使いどころの少ない特殊技法です。今は、そんな高度なことまで考える必要はない。
 まずは、多くの具体例を用意することに慣れてからの話です。

 と言うわけで、第二の問題。多くの具体例は考えられない。そもそもどう考えて良いのか分からない、と言うものについてです。

 ところで、具体例が多すぎると描写の邪魔になると言っても、本当にそれほどの量があるものでしょうか。
 前々回にやってみた「剣による攻撃とダメージ」の例。これでも情報量としては多すぎるくらいでしょう。実は常識と基礎知識の範囲内でも、相当数の具体例を考えられるはずなのです。また逆に考えれば、常識と基礎知識の範囲を越えた具体例なんて、小説の描写で使われても、読んでいて理解できるわけがありません。
 具体例の量なんて「そこそこ」で良いのです。「そこそこ」で既に、多すぎるくらいなのですから。

 ですから、より多くの具体例を準備しておく努力なんて、慣れればそんなに難しいことではない。では、多さは問題ではない、と言うことになります。
 と言うわけで、またここで第一の問題に戻ることになる。実は描写において重要なのは、的確な情報の選び方なのです。

 では、どうすれば的確な描写が行えるようになるのか。実はある程度、発想のレベルから変える必要があります。
 具体的には、既存の作品に影響を受けて、その印象をそのまま使わない。発想を紋切り型[ステレオタイプ]に固定させないようにしましょう。
 ステレオタイプとは、読解した分析の結果に過ぎません。そして分析結果とは、読者の所有物です。また「何かの作品を読んだ印象」と言うのも、やはり読者の所有物に属します。
 ですが作者に必要なのは原材料であって、加工品ではありません。

 ですから一度、「せかいせってー」と言う「既存の考え方」を捨ててください。
 他人が作り上げたイメージに依存するのではない。自分の中にある「リアリティ」を表現しようとしない限り、描写なんて出来ようはずがありません。

 このような話があります。
 美術評論家の布施英利さんが、とあるテレビ番組に出演なさった際のことです。小学生を相手に短時間の授業で、上手な絵を描けるようにしてみせよう、と言う番組内容でした。
 布施さんはまず、小学生たちに何の条件もなしに、魚の絵を描かせてみました。するとほとんどの小学生たちは、同じような絵を描いたのです。楕円形の胴体に、三角の尾びれをくっつけて、あとは目を描けば完成。よくあるベタな魚の絵ですね。
 実は、小学生たちが描いていたのは魚ではなかった。「魚に対する印象」を描いていたのです。
 ですから今度は小学生たちに、現実の魚を良く観察してもらってから、魚の絵を改めて描いてもらった。すると皆、リアリティのある生き生きとした魚の絵を描いたそうです。
 実際、普段から絵を描かない人たちに同じことを試してみると、似たような結果になるのではないでしょうか。





参考図書
posted by はまさん at 00:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 幻想的

2007年06月29日

いわゆる「攻撃魔法」を描写してみようか:2

前回:http://blogs.dion.ne.jp/hamalog/archives/5822682.html

 描写を行うには、より多くの《具体例》を準備しておいた方が、便利であることに違いはない。だが、いきなり描写をやれと言われても、どうも嫌がってしまう人が多いように思えます。
 そうして描写を嫌がった結果、面倒臭いから描写はやらない。描写すらやらないから、いつまでも上達しない、と言うことになる。

 ではなぜ描写を敬遠するのか。主な口実にはどうも、ふたつあるようです。
 ひとつは、想定される具体例が多すぎて、何を使えば良いのか分からないから。
 もうひとつの理由は、たくさん具体例を考えろと言われても、思いつかない。そもそも、どう考えて良いのか分からないから、と言うものだ。
 だが、それって本当だろうか? 実際に順を追って考えてみよう。

 まずは第一の問題。想定される具体例が多すぎて、何を使えば良いのか分からないと言うもの。
 この問題を口実に描写を嫌う人は、続いてこのように主張します。具体例なんて、たくさん思いついても仕方がない。邪魔になるだけだ。だったら描写なんて面倒臭いので、やらなくても良いじゃないか。読者なんて放っておいても構わないから、自分が好き勝手に書けば良いのだと。
 しかし実際には、「あえて書かない」のと「単に書けない」のでは、大きな差が存在しています。

 特殊技法のひとつに、黙説法[レティサンス]と言うものがあります。別の言い方では「故意の言い落とし」とも呼びます。
 この特殊技法は、文章として書くべき内容を、あえて書かない。「書かない」ことで、逆に読者の想像力を膨らませる。また「書かない」ことで、書かれてあるものを逆に強調する。もしくは誇張[デフォルメ]するのです。

 それから別の特殊技法を紹介しましょう。
 受け身の主体を強調することで、そこに書いていない動作の主体を感じさせる。そこにはないものを、そこにあるように書いてしまう。描かれている内容の現実にはないものを、文の動きの中に漂わせる。
 例えば濡れ場を描くとして。受け手の状態だけを描写することで、責め手がどのような行為をしているのか、読者へ暗に伝える。
 これを、攻撃魔法の描写に応用するとどうなるか。攻撃の描写だけで、ダメージまで読ませる。もしくは、どのようなダメージを負っているのか描写することで、同時にどのような攻撃だったか描写することも出来ます。

 自分が何を表現したいのか。あえて書かない代わりに、的確なひとことでもって、描写対象を言い当てる。パソコンの圧縮ファイルが解凍されるように、たったひとことだけで、連鎖的に豊かなイマジネーションを読者に与える。読者が妄想を膨らませるための、引き金となるひとことを与える。
 このような書き方も存在するのです。

 ただし、最初からベストを目指す、的の中心を射ようとするのは難しい。ですから、まずは的に当てることを考える。だったら、下手な鉄砲も数打ちゃ当たる。
 準備する弾丸数は不足しているより、充分な方が良いに決まっています。

 もちろん普通に、精密[ディテール]描写を重ねることで、モチーフを強調する書き方をしても良いでしょう。だがそのためにはやはり、豊富なイマジネーションが必要となる。その上で、何を書いて、何を書くべきではないのか。と言う取捨選択が行われる。

 深く豊かにイメージして、なお省く。イメージを技術で制御する。最初から貧困なイメージしか持てないのと、選別を重ねた豊かなイメージを持つのと。
 この差は大きい。

 では、その具体例をそうやって考えれば良いのか。次は問題その2。こんな多くの具体例は考えられない。どう考えて良いのか、わからない。
 このことについて考えてみましょうか。



posted by はまさん at 00:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 幻想的

2007年06月28日

いわゆる「攻撃魔法」を描写してみようか:1

 これの続きになります。

 偉そうに「小説と言う夢を、夢で終わらせない。具体的な現実の構築物として、積み上げる」とは言っているものの、一体どんなことをやれば良いのか。
 肝心のボクが具体的に説明できないと意味がないので。実際にどのような作業が必要になるのか、考えてみましょう。

 まず「積み上げる」とは、何のことなのか。
 とりあえず、世界設定のことではありません。設定は小説を書く際に大事ではあるでしょう。が、絶対に必要不可欠と言うわけでもありません。
《設定の悪例》
【エターナルフォースブリザード】
ランクS級の攻撃魔法。
世界中でも主人公しか使えないと言われている。
効果=相手は死ぬ。

 いくら設定を重ねても、小説にはなりません。
 小説に命を吹き込むのは《描写》です。描写して、作品化しないと、読者は感動出来ない。描写を伴わない世界設定なんて、やるだけ無駄です。
 そして描写の基本は、具体例を挙げることにあります。

(参考:http://www.h7.dion.ne.jp/~p-o-v/lecture/byosha-5.htm

 前回これで既に説明しましたが。《攻撃》とは、すなわち「何らかの危険性を持つ手段により、心身への損傷を与える行為」と言うことになります。
 つまり《攻撃》と言うアクションは、「攻撃→ダメージ」と言う一連の基本構造から出来ている。《攻撃》だけ、もしくは《ダメージ》だけの単体では成立しないアクションだと言うことになります。
 と言うことは、「攻撃を描写する」作業とは、《攻撃》と《ダメージ》。両方を描写する、と言うことでもあるのだ。

 では、「攻撃とは何なのか?」については既に説明したので。次に、ダメージとは何なのか、少し掘り下げてみると。
 攻撃的行動により、何らかの影響が起こる。結果、肉体的な損傷が起こることもある。以上を総称して、「ダメージ」と呼ぶ。
 勘違いしないで欲しいのは、《ダメージ》なんてものは存在しないと言うことです。例えば、自分が誰かに「釘で刺される」のと、「攻撃される」のとは、イコールではありません。
 「ダメージを受ける」のではない。「怪我をする」のですよ。

 では、分かりやすい例として、「剣による攻撃とダメージ」について考えてみましょう。
 まず剣そのもの、刃自体は、単なる金属の塊に過ぎません。ただ鋭利な形状をしていると言うだけです。刃に何かが「当たる」・「触った」だけでは、モノは切れません。
 例えば一部の刃物では、手を多少押しつける程度では、肌は切れない。だが実際にきちんとした使用法で用いると、かなり鋭利な切断が可能、と言うこともあります。(※危険ですので、試さないでください)
 「攻撃の命中」イコール、ダメージではないのです。

 刃物でモノを切るためには、いくつかの条件が必要となります。
 まず切るモノに対して、きちんと刃筋を立てる。でないと力が分散してしまいます。
 それから、切断対象の強度を越えた、強い力を加えなければなりません。これが剣なら、振り回して速度を付けることで、威力を増しています。

 肌に強い力で刃が押し当てられる。刃は鋭利なので、一点に力が集中する。人の肌は柔らかく、刃によって強い力を加えられるのに耐えきれません。すぐに皮は裂けます。次いで刃は、肉に食い込む。
 以上、これが《ダメージ》と言うものです。

 また先程ボクは、手を多少押しつける程度では肌も切れない刃物があると紹介しましたが。日本の刃物は大抵、押し当てながら「引く」ことで切れるようになっています。ですから日本刀は「引き切る」ものです。
 これは、包丁で魚や肉を切る時のことを思い出してくれると、イメージしやすいのではないでしょうか。

 更に説明すると。
 ハサミは「押し切る」刃物の代表と言っても良いでしょう。これが斧やナタだと、「叩き切る」もしくは「叩き割る」ことになる。更には、ノコギリで「切る」とどうなるか。また違ってきます。
 単に「切る」と言っても、多くのバリエーションがあるのです。

 この、切り方の違いにより、出血量、痛み方、治り方と。怪我の仕方は変わってくる。
 問題は切り方の種類だけではありません。怪我をした箇所や、傷の深さで、また事情は変わってきます。

 と以上まで。
 多少の知識と、常識観念。あとは、ちょっぴりのイマジネーションがあれば、充分に思いつくことが出来る範囲内のはずですよね?



posted by はまさん at 00:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 幻想的