2007年02月18日

はま受験 志望校決定編 : 07/最終回 進学先の選び方

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 ……とね? さんざん進学就職は大事だよ的なことを言ってきたわけですけど。やっぱり受験勉強だけで、多感な思春期と言う、人生で最も大事な時期を使い切ってしまうのは、無駄な行為だと思うのですよ。ですから最後にひとつだけアドバイス。
 別に無理な勉強をしてまで、高偏差値の大学へ行こうとしなくても良いですよ〜。そこそこ頑張れば確実に行ける、と言う程度の学校で構いません。大事なのは「学校に行く」こと自体です。だってこの『はま受験』を読んでくださっているあなたは、将来小説家になりたいのでしょう? だったら大学へ行くことのみを意識する。行ける大学だったら、どこでも良いじゃないですか。問題は在学中に何を学ぶかです。
 やっぱり何だかんだと言っても、今や学歴社会神話はかなり崩壊しています。超一流大学にでも入学しない限り、大卒の「御利益」に与ることは難しい。ならば自分は自分のために何を学ぶべきなのか。現在とは、全てを自分で決めなくてはならない時代なのです。
 ただ、やはり四年制の大学が良い。大学なら四年間も小説修行をできる。

 更に言うなら、取りたい資格や、特にこだわりがないのなら、学部学科すらどこでも良いと考えましょう。
 もちろん小説修行をしたいのだから単純に考えて、国文学科にでも進めば、小説について学べるかと思うかもしれません。確かに文学部へ進んで、専門的な深い知識を得るのも良いでしょう。しかし実は、文学部に進んだからと言って、「小説を書く」ことについて教えてくれるとは限りません。恐らくですが、大半の文学部は「読む」ことについて研究する方が多いのではないでしょうか。

 ですから文学とは余り関係なくても、興味を引かれる学科なら良し。今の自分とは全く関係のない学科なら、もっと良しとボクは考えています。異なるジャンルの《知》を獲得することは、全く新しいジャンルの《知》を生み出すことにつながりますからね。他の誰も持っていない自分だけのジャンル。どんな小説家でも欲しがる最高の武器です。
 では文学はいつ学ぶかと言うと、独学ででもやれば良いのです。《学問》のやり方を身に付けた人間であれば、自分に関係のある《知》は案外といつでも学べるものです。ただし受講できる範囲内で、文学に関係する授業に顔を出すのは悪くないでしょう。
 学部学科は問題ではないのです。《学問》を行うと言う、大学生活を送ること、そのものが重要なのですから。

 ボクなんて仏教学科ですよ。ブッキョー。
 最初は倍率が低く人気がない、と言うだけの理由で受験したんですけどねえ。本当に合格してしまって、どうしようかと思ったものですよ。受験生当時までは、仏教なんて縁もゆかりもありませんでしたから。
 でも結果的に、仏教の知識は小説の良いネタになる。仏教の教えは気が付けば哲学となって身につき、エッセイを書く際の役に立つ。しかも「仏教系」ってあまりいませんからね。存在自体がレア。すごく得をした気分です。今じゃ『岩波仏教事典』が愛読書ですよ。

 ならば志望校を選ぶ基準とは何なのか。そうですね……あえて言うならば。
 まず志望校のホームページを閲覧してください。その学校には、文学部や漫画研究会みたいな、オタクの仲間を作れるサークルは存在するでしょうか。小説修行において仲間の有無は重要な要素です。オタク系サークルの存在を確認できたら、そのサークルのホームページも探してみて、活動内容を知るのも良いでしょう。
 それから、下宿と大学はそこまで離れていて欲しくない。もちろん交通の便は良いに限る。特に繁華街まで直接行ける手段は欠かせません。そして、その町に同人ショップの一軒もあれば最高だね! 下宿の近くには、惣菜の美味いスーパーがあって欲しい。美味くて安い定食屋も探しておきたいところですね。あとは大型書店と図書館の場所もチェックしておきましょう。

 ……なんだか浮かれたことを言っているように思われたかもしれませんね。
 しかし、偏差値や資格でなく、キャンパスライフで大学を選択すると言うのは、かなり有効な志望校の選択方法だと思います。偏差値だけで進学先を選び、いざ入学してみると学校の場所は、田んぼのド真ん中。どこかへ遊びに行こうと思っても目的地がない。おかげで友人のひとりも作れずに四年間が終了、って悲しすぎます。
 そもそも「楽しい大学生活」を想像するのは、スポーツで言うところの「成功イメージ」によるイメージトレーニング方法につながります。将来の「成功した自分」を出来るだけ具体的にイメージすることで、努力に方向性を持たせるのですね。それこそ受験の最中に「楽しい大学生活」を思い浮かべて、ニヘラニヘラするくらいで良いのです。緊張感も解けますから。
 あなたが本当に小説家志望だと言うのなら、妄想はお手の物でしょう。妄想で現実まで変革させちゃってください。
《例》
「現実では適わない相手ならば、想像の中で勝て。自身が勝てないのなら、勝てるモノを幻想しろ」

 よくテレビで、日本の大学を「大人の幼稚園」と評するコメンテーターが出てきたりします。
 日本の大学は入るのが難しいだけで、合格さえしてしまえば、もう学生は勉強しない。ええ年した青年が働きもせず、毎日親の金で遊んでいる。だからケシカラン! とまあ、物事の一面だけしか見えない人が、さも知っているかのように語っているわけですよ。大学に入っても、真面目にやっている人間はいると言うのにね。
 しかしその上で。大学は「大人の幼稚園」でも別に構わないじゃないかと、ボクは思っています。

 高校まで、先生の言うとおりに《おべんきょう》しかやってこなかった。だと言うのに、いきなり社会人になったのでは、挫折しかねません。クッションが必要です。
 親に仕送りしてもらいながらの一人暮らしは、親離れ・巣立ちの準備となります。バイトは仕事の練習となる。サークル活動は多様な人間関係を学ぶ格好の場となる。学園祭は企画実行力の訓練の場となる。授業を受けたり、本を読んだりと言った行為だけが《学問》ではありません。
 とある美少女ゲームメーカーの話ですが。そこは入社資格として、同人ゲームを作った実績が求められると言うのです。複数人をまとめてのプロジェクト実行が、いかに困難な作業なのか。一度でも経験していないと、絶対に理解できない。ましてや同人でも作品を完成させたこともないのに、プロの仕事はできないと言うのですね。
 成功するためには、まず一度、失敗した経験が必要なのです。そして成功体験よりも、失敗の蓄積の方が、より大きく人間を成長させるものです。

 受験とは競争社会です。そして競争に勝利できるのは、トップの人間のみ。自動的に残り大半は、負け組のレッテルを貼られることとなります。
 そんなことを中高生、ヘタをすると幼稚園の頃からずっとやっている。それもこれも自分だけが《勝ち組》となるためなのだが、どうやら自分は《負け組》にしかなれないらしい。それも当然で、競争社会とは大半の人間を《負け組》にしてしまうシステムだからです。ならば貴様だけは勝てば《勝ち組》になれると言っても、誰かが勝てば誰かが負けるのが、競争社会の原理。絶対に全ての人間が幸福になれないように、最初から出来ているのです。
 おかげで、ほとんどの子供たちは、自分で自分を嫌いになってしまいます。自分で自分を好きになれるチャンスなんて、ずっと与えられずに育っていますから。

 だからこそ受験受験で、一刻も早くオトナになることを強いられてきたコドモたちに。大学と言う「大人の幼稚園」でもう一度、一生懸命にコドモをやってきてほしい。そうして、まずは自分で自分を好きになるところから始めてほしい。他人の命令でない。自分で自分のやりたいことを見つけ出してほしい。
 すなわち、自分にしか書けない小説を手にして欲しい。

 例えば親や教師など、周囲の大人たちが誰も応援してくれなかったとしても。現実に立ち向かい、夢を正しく叶えようとする限り、ボクはあなたの存在を望んでいる。近い将来にあなたが、傑作を書き上げることを信じている。そしてその時が来たら、ボクを楽しませてください。
 期待していますよ。



はま受験 以上で終了!
posted by はまさん at 11:37| Comment(5) | TrackBack(0) | 連載:はま受験(完)

2007年02月17日

はま受験 志望校決定編 : 06/小説家になれなかった場合の保証と言う発想

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 つくづく思い知らされるのですが。本っ当に「親の反対を押し切ってでも、進学せずに小説家になる!」と言う中高生は多い。そしてボクはそのような、いたいけな未成年相手に、とてもじゃないけど無責任なことを言うことは出来ない。
 おう、進学しないか。するなするな。プーでニートのまんま小説家を目指しちまえ。ノーフューチャー! とか冗談でも真に受けられて数年後、恨まれでもしたら堪りませんからね。

 ただしボクは、現行の受験システムは間違っていると考えている。
 何の役に立つのか。教師ですら説明できないような知識を、無理やり憶えさせられる。人間、無意味な行動を繰り返し強制させられると、最終的には自殺するか発狂すると言います。そうやって成績が決定。あげくには、その後の人生まで決定してしまう。自分の人生なんて、とてもじゃないけど考えられない未成熟な子供の内に。
 だから受験戦争で精神に変調を来してしまう人は多いそうです。そりゃそうだ。ずっと幼い頃から、他人を押しのけろ、自分だけが成功すれば良い、一度でも失敗すれば人生は終わる、なんて教え込まれているのですから。
 そんなことを子供に教える大人って、何を考えているのでしょうね。子供の犯してしまった失敗を許してあげられるのが、本当の大人ってものですよ。……とボクが子供の内に、大人たちに主張したところで聞き入れてくれるはずもなく。じゃあ、ええ年齢になった今になって主張したら世界は変わるのかって、ぜんぜん変わりゃしない。

 だからボクは、小説家になりたいと言う夢を持ち、輝かしい才能を持つ少年少女たちに対して、応援することしか出来ない。大人たちの身勝手や、受験戦争で、その才能が潰れないでくれと。
 と同時に、小説家と言う夢に現実逃避して、自分を大切にしようとしない小説家志望の少年少女たちに対して、腹が立って仕方がない。なんで、進学しないことが、夢を叶えるためのデメリットになると考えられないのかと。

 受験勉強が将来何の役に立つのか。確かに受験勉強なんて社会に出たら無駄かもしれません。でもそれを言ったら、大学でも小説でも、あらゆる「知」は受け手が意味を見出さない限り、役には立たない。受験の時にしか役に立たない知識でも、身に付けてもいない人間には、役に立つ立たないと言った評価を下す資格はありません。
 受験戦争は確かに、多くの人を苦しめる《わるい》存在かもしれない。だからと言って、受験から逃げている者に批判をする資格はない。大学合格と言う《結果》を出してから文句を言えって話ですよ。

 そもそも、大学受験も小説の新人賞も、同じようなものじゃないですか。人間を能力のあるなしで選別して、ふるい分けすると言う意味では、何も変わらない。受験なら悪くて、新人賞ならダメと言う理屈は成り立ちません。
 そもそも今は受験勉強したくないので、進学もしたくないと言ってみても、人生と言うものは後になって受験だらけになっている。分かりやすい例としては、司法試験に公務員試験など、就職するためには資格の必要な職業は多い。そしてまた就職したとしても、昇進のために試験を受けなくてはならなかったりと。社会に出れば人は、いつでも選別されているようなものです。
 選べるのは、自分の何を選別してもらうか、だけ。「選別されない」ことを選択することは出来ません。

 だいいちクリエイターの世界とは、才能と才能とがぶつかり合う、競争社会です。進学受験より甘いはずがない。
 結局、受験戦争なんてものは子供相手の、大人たちに庇護された世界に過ぎません。親や教師が何と言おうと、金銭的な余裕があれば、失敗しても浪人することが許される。身の丈をわきまえて、進学先に贅沢を言わなければ、勉強して成績が上がった分だけ志望校のランクも上げられる。進学受験は誰でも努力が報われる保証があるのです。
 対して小説などのクリエイターの世界は、いくら努力をしたからと言っても、それが確実に成功へ結びつくとは限らない。だが成功しなければ、自分と関係する多くの人たちに迷惑をかけることになる。誰も自分を助けてはくれない。甘い世界ではない。
 甘くはないからこそ、小説書きとして必要な能力を、身に付けておく期間をキープする。小説書きとして必要な能力とは例えば、文章技術、執筆生産能力。一般的なところとしては、知識、常識、コミュニケーション能力、ストレスへの耐性。そして、のちのちまで財産と言えるような友人作り。

 それから、もしも今すぐに小説家としてデビュー出来なかったとしたらどうするのか。考えておく必要もあるでしょう。
 学歴社会もかなり崩壊したとは言え、まだまだ影響は強く残っています。学歴があるからと言って、好待遇の職場へ簡単に就職できるとは限らない。だが、学歴がなければ確実にブルーカラー以外に求職の当ては見つからない。今はそんな時代です。
 フリーターをやりながら作家を目指すのも良いでしょう。しかし今日日、フリーターでも正社員並の労働時間を強いられているものです。拘束時間が同じなら、社会保障のある正社員になってから、コツコツと小説を書くと言う発想も悪くはありません。ならばやっぱり、大学新卒の肩書きは欲しいところ。
 と言うように、それなりの堅実な人生設計を持っていれば、親家族も安心できようと言うものです。周囲の人間の理解と協力を得て、執筆環境を整える。それもまた作家になるための努力のひとつです。
 例えば、自分は立派な立派な人間国宝の弟子になりますと。しかし一人前になるには、何年もかかるが、修行修行でバイトなんて出来ません。だから仕送りしてください、と親を頼りにしたとする。だけど、経済的に無理だと断られたら、どんな立派な夢も終わりです。諦めるしかありません。

 「夢を追いかける」のと「現実逃避」とは同じものではありません。「夢を追いかける」ためには、自分とそして世界と向き合う作業が求められる。それは常人なら逃げ出してしまうような、本来なら世間も逃げ出すことを許してくれるほどの苦行です。とは言ってもそんな苦行。社会人として生活に追われながら行っていたのでは、いつか疲れて倒れてしまう。だから大学で力量だけは身に付けておく。勉強するのが嫌だからと、自分で自分に甘えているような人間に小説家と言う、厳しい現実に耐えることはできないと思います。「小説家になる夢」を現実逃避の手段に使わないでほしい。
 「小説家になる夢」を抱いている人間にとって《小説》とは、自分の夢を叶えて「もらう」ための手段であってはならない。「小説家になる夢」を抱いている人間ならば、むしろ《小説》に対して何かを「してあげる」立場でいるべきだ。
 小説家とは「夢を見る」側の人間ではない。小説家とは人々に「夢を見させる」のが仕事です。だからこそ夢を夢のままにしない。現実にありそうな夢を見させる。もしくは夢に見たくなるような現実を作り上げる。だからこそ小説家は、夢を現実のものとして向き合わなくてはならない。現実の厳しさと、夢を叶える厳しさと。小説家には最低でも常人の二倍のストレスが求められることになります。

 そして脳科学的に、ストレスへの耐性とは普段から鍛えなければ身に付かないものです。中高生の内は、夢を「ほどよく」諦めて、勉強しちゃってください。
 小説家にとっては原稿用紙に向かっていない間も、常に小説修行が行われているようなものです。たとえすぐに小説家を目指していなくても、きちんと現実に向かって生活している期間はきっと、後々に財産となります。確かに不安にはなるでしょう。でもそれは冬の樹木が、目に見える葉や花をつけていないようなもの。確実に土の下では根が広がっているはずです。
 そんなに生き急がなくても良いのですよ。

 確かに中には、高校デビューなんて人もいます。でもそんな人は特異中の特異例。高校までは発想が「中二病」で普通。人並み外れた才能の持ち主でも高校までならば、そこそこの作品を書ける程度。高校在学中にプロ小説家デビューして大活躍なんて天才は、全国にひとりかふたりいれば多すぎるくらいです。

 また脳の話になりますが。思春期の脳は成長しているがゆえ、常に不安定な状態にあるそうです。具体的には、意味のない不安感や破壊衝動に襲われるなどの傾向が《若さ》にはある。《若者》の視野が狭いのは、このためです。不安感や衝動は、視野を狭くさせるための、代表的な要因と言えるでしょうから。
 しかしその視野の狭さは、まだ外界から自分を守る手段を持たない《若者》には必要な要素と言えます。視野を狭くさせることで、外敵から自分を守る。そうして自分を守っている期間で、外界と向かい合っても負けないくらいに、内界を熟成させる。こうして「視野の狭さ」はちょうど、若者を守る「ライナスの毛布」の役割を果たすことになる。
 ですから《若さ》とは、とても大事な期間なのです。充実した子供時代を過ごせなかった人間は、いつまでも大人になりきれない、と言うことになってしまいます。

 しかし「視野の狭さ」なんてもの、小説家を目指すためには邪魔にしかなりません。小説家に必要なのは「視野の広さ」の方です。だから生物学的に言って、中高生に小説家は向かない。高校生で小説家デビューして大活躍なんて、これはもうニンゲンとは全く違うイキモノの所業です。そんな無茶な存在、憧れたり目指したりする必要はありません。
 むしろ問題は、向いていないと言うのに、無理にでも小説家デビューを目指している中高生の方々です。これはすごく勿体ない話だと、ボクは思うのです。だって、仮に磨けば光る才能を持っていたとしても、その才能は《若さ》ゆえに曇らされて見出されることはない。そうしてやがては埋もれてゆく。
 別にね、焦らなくても良いのです。ハタチを越える頃から体の成長が止まると共に、脳の働きも安定してくる。つまり《自分》と言うものが出来てくる。自分が書くべき言葉が見つかってくる。そして、「ハタチを越える頃から」とはすなわち、大学時代と重なります。だから小説修行したいのなら、大学に行った方が良い。
 「親の反対を押し切ってでも、進学せずに小説家になる!」なんて発想。背水の陣を気取っているのかもしれませんが、実際には負け戦・自殺行為にしかなりません。ギリギリの窮地に追い込まれれば、何か眠っていた能力が覚醒して「イヤボーン!」とか、そんなことは絶対にあり得ませんからね。人間、実力以上のことは発揮できません。

 「今の自分」を無批判に自分で受け入れられている内は、まだまだ若い証拠です。もう少し経てばきっと、今の自分すら「若気の至り」として恥ずかしく思える時がきっと来る。
 人間、若気の至りのひとつやふたつを持てて、ようやく一人前みたいなものです。これが小説書きなら、もう二度と読み返したくない作品群とか、あってやっと一人前。過去の自分を恥ずかしく思えるのは、自分が成長して先へ進めた証拠です。
「認めたくないものだな。自分自身の若さ故の過ちというものを」

 それまでは失敗を繰り返しながら、ゆっくり自分で自分を成長させてください。
posted by はまさん at 00:38| Comment(3) | TrackBack(0) | 連載:はま受験(完)

2007年02月15日

はま受験 志望校決定編 : 05/小説家になりたければ学問をしに大学へ行こう

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 母校の恩師が……と言うよりは母校の先生方がみんな、口を揃えてこんなことを言っていました。
 入試で好成績を取り、授業も真面目に出ているような優等生ほど、卒業論文を書かせると自分でなかなかテーマを見つけられない。逆に、授業は赤点にならない程度にしか出てなくて、普段はサークルやバイトばかりして遊んでいるような放蕩学生ほど、卒業論文では素晴らしいものを書いてくる。

 考えてみてください。
 例えば、政治家や官僚や医者など。社会的に責任ある立場にも関わらず、不祥事を起こしてニュースを騒がせるような《おえらいさん》たち。かなりの高学歴を持っていないと、彼らのような職業に就くことは出来ません。
 しかし《学歴》とは、高校までの成績だけで決定されます。大学以降の素行・成績は問われない。つまり、大学受験までの《おべんきょう》さえ要領良く出来ていれば、他の能力は問われることなく高学歴になれる。だから高学歴を要する職業には、パッパラパーの含有率が異常に高いのです。
 しょせんね。高校までで教わっていることなんて、《おべんきょう》に過ぎません。現代日本の教育システム上、本当の《学問》は、大学に入ってからでないと教えてくれないものなのです。

 では勉強と学問とで、どのような違いがあるのか。変わらないように見えて、その本質は全く異なっています。
 《勉強》とは、ただ単に「がんばる」という意味の言葉に過ぎません。漢字を分解すると「勉メルコトヲ強イル」となりますね。しかし、その努力によって何を身に付けるのか。《勉強》には、身に付ける者の意思は問われません。
 対して《学問》とは、「理論に基づいて体系づけられた知識と研究方法の総称」という意味の言葉です。具体的には「学ビ問ウ」こと。《学問》には、ただ学ぶだけでなく、自ら問うことも必要となるのです。
 つまり、主体性を持って努力しているか。これが《勉強》と《学問》との大きな違いとなるわけです。

 そして《学問》においては、「まなぶ」こと自体は大して重要ではありません。
 例えば、参考資料と言う御題目で、RPGの設定本や、萌え系紹介本をたくさん集めたとする。しかしただ単に多くの《知識》を持っていても、それを活かせるかどうかは別問題です。《知識》をいくら集めても、必ず《知恵》に結びつくとは限りません。集めた古い情報にはない、自分だけの新しい情報を作り出せなければ意味はない。そして本当の《知恵》を身に付けたければ、《おべんきょう》ではない《学問》が必要となります。
 では《学問》を身に付けて、なぜ知識を活かすための知恵が得られるのかと言うと。《学問》においては「まなぶ」ことよりも、むしろ「問う」ことの方が重要となるからです。「まなぶ」だけの《おべんきょう》なら他人の言いなりになっていれば、やり通せるでしょう。しかし、自分が誰かに、もしくは自分が自分に「問う」。これは他の誰かに命令され強制されたとしても、不可能です。自分の疑問は、自分だけにしか見つけ出せません。
 自分で見つけ出した疑問・課題を、自分で解決する能力。これが《学問》です。他の誰にもない自分だけの「問い」を見出し、自分だけの答えを見つけ出す。だからこそ、今までにない新しい情報が生み出せるわけですね。

 そう考えると、なぜクリエイター職に《学問》が必要なのか。理解していただけるでしょうか。自らに問いを投げかけ、問題を解決する能力。主体性、自主性。まさに作家として重要なライトスタッフ[正しき資質]です。
 小説を書いていれば、大きなものから小さなものまで、問題は幾らでも生じてきます。小さな問題としては例えば、「闇と暗黒とではどう意味が違うの?」とか「魔術と魔法とではどう意味が違うの?」とか「ファンタジーに日本刀を出してはいけないでしょうか」とか「作品内に実際に存在する団体の実名を出してはマズいでしょうか」とか「主人公に恋しているヒロインが沢山いるような作品を書いてはいけないでしょうか」とか「自分の考えている魔法の設定にこれこれこう言うものがあるのですが、この世界にナンタラみたいな兵器を登場させると問題は起こらないでしょうか」などなど。大きな問題としては例えば、「人生の意味について」とかね。
 運動不足の人間が、いきなりフルマラソンを完走しようと思っても出来るものではありません。ジョギングから始めて、トレーニングの積み重ねが必要となる。同じように、普段から小さな問題に立ち向かい、問題解決能力を育てていなければ、いきなり大きな問題・課題を解決できるものではありません。

 確かに、現在ではインターネットのコンテンツも充実しました。googleやwikipediaで分からないことは、まずないと言っても良いでしょう。しかし、検索で「なに」は調べられても、「なぜ」と言う答えは問いかけた本人の中にしか存在しません。
 例えば「主人公の高校生は陰陽術師である」と言う小説を書くとする。検索をかければ、世界設定などのディテールに関する情報はすぐに手に入れられるでしょう。しかし、「じゃあ、なんで普通の高校生が陰陽術師やっているの?」と言う疑問に答えてくれるサイトなんて存在しません。仮に存在したとしましょう。そして、その答え通りに小説を書いた。でもそれって、既にオリジナルではないですよね? 自分だけのオリジナリティを目指そうとしないで、創作なんてやる意味はありません。
 そもそも、自分の人生の答えも見つけられなくて、不特定多数の他人に何の言葉を投げかけようと言うのか。

 もちろん《学問》はひとりの独学ででも出来る。だが、「学問とは何なのか肌で知る」のと「主体性を身に付ける」のは学校で人に教わった方が早い。だから、甘えでも現実逃避でもなく。真剣に小説家と言う将来の人生設計を立てたいのなら、大学へ行け。

 ……と思いこめば、辛い受験勉強もちっとはやる気がでるんじゃないですかね? 無理ですか。そうですか。
posted by はまさん at 00:09| Comment(2) | TrackBack(0) | 連載:はま受験(完)

2007年02月11日

はま受験 志望校決定編 : 04/小説系専門学校に関する個人的な意見

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 確かにボクは小説系専門学校に好印象を持っていません。でもそれは、ボクがたまたま「残念」な経験をしてしまったからなのかもしれない。実は日本中を探せば、素晴らしい小説系専門学校も存在するのかもしれない。
すごいや!ラピュタは本当にあったんだ!

 でも疑問が残るのです。小説系専門学校を卒業した人たちの、「専門学校に行って良かった」と言う声には、だいたい似たようなものが多い。例えば、「仲間ができた」、「学校が役に立つかどうかは、行く人次第」、「学校と講師を最大限利用しろ」など。
 ……それって当たり前じゃないですか?

 確かに専門学校出身者でプロデビューした人はいるのでしょう。でもデビューするのに、専門学校がどれだけの割合で役に立ったか。疑問は残ります。もしかしてね。プロになれる人は専門学校なんて関係なく、独学で放っておいても、デビューできているんじゃないか。
 専門学校に行って特別プラスになるようなことって、本当にあるのでしょうか?

 専門学校に通おうと思ったら、学費が年間で100万円と言ったところでしょう。安くはありません。しかし、体験入学をした際の感じから言って、大して特別なことを教えて貰えると言うわけではない。ちなみにボクは、文学書のたぐいを読んでの独学しか行っていません。そんなボクですら、専門学校の授業で教えられる内容より、自分の方が知識を持っていると言う自負を持っています。
 専門書で数冊分だから、まあ一万円もかからない。それと専門学校での学費とで、得られる情報量は恐らく同じようなものでしょう。つまり専門学校で小説の書き方を学ぶコストは、独学の最低でも100倍以上。高額すぎます。

 もちろん、専門学校は「おべんきょう」だけをする場ではない。人と人との出会いの場でもある、と言う方もいるでしょう。しかし小説仲間を作るにしても、別に専門学校に限らなくても良い筈です。
 小説の書き方を教えてくれるカルチャースクールなら、数万円で済む。それ以前の問題として、インターネットが整備された現在なら、発表の場も出会いの場も数多く用意されています。そもそも、小説家になりたいのならまず、同人活動でもするかサイトでも作れと言いたい。いや中には、小説を書いたことはないけど、将来は小説家になります、なんて困った方もいるくらいですしね。

 以上の理由により、ボクには小説系専門学校に通う必然性・必要性が理解できません。
 そうですね……。よほど高名な方が常勤の講師として授業をしてくれると言うのなら話は別でしょう。ただし、あくまで「常勤」で、です。「非常勤」ではいけません。ライトノベル学科も開設されているような、アニメ系専門学校の常套手段なのですが。高名な文化人や作家を呼んで、「非常勤講師」と言う名目で一度だけ講義をしてもらう。すると、入学案内のパンフレットには、あの憧れの大作家様が講師として授業をしてくれる! と宣伝できるようになる。ただしもちろん「非常勤」ですから、次はいつ授業をしてくれるのかは分からない。
 良くある話ですね。

 とここまで聞いても、やっぱり小説系専門学校に行きたいと言う方に忠告です。《学校法人》の専門学校に行ってください。学校法人とは、「私立学校法に基づき、私立学校の設置を目的として設立された法人」。つまりは国も認める《まとも》な学校だと言うことです。
 対して《企業法人》の専門学校に、《教育》に対する責任はありません。なにせ単なる《企業》であって《学校》じゃありませんから。あえて言うなら、カルチャースクールと何も変わりません。
 ……とは言っても、代表が有り金を持って夜逃げしたせいで破産しちゃった、業界トップの某最大手専門学校。あそこも確か、学校法人でしたっけ?

 やっぱり、ボクにはら小説の書き方を目指すのに、専門学校に行くことは、どのみちお薦め出来ません。
 小説の書き方を教えてもらうために、小説の専門学校に行きましたと。じゃあ次はどうするんですか? 小説書きの道とは、「書き方」を憶えるだけで終わるものではありません。サイトを作りたいから、インターネットスクールに行きます。歴史小説を書きたいから、歴史教室に通います。自分に自信が持てないから、自己啓発スクールに通います。
 小説を書くのに学ぶべきは、まだまだ沢山ありますよ? それら全てを他人に教えてもらうつもりなのでしょうか。もちろん独学が困難な分野であれば、他人に教えてもらうのは有効な手段でしょう。

 しかし小説書きとは、自分から進んで行う、能動的な作業です。対し、専門学校などで誰かから教えてもらうと言う行為は、受動的なものに過ぎない。
 学校で教わったからと言って、「書く喜び」までは誰にも教えてもらうことは絶対に不可能なんですよね。第一、他人に命令された通りに何か文章を書いて、果たしてそんな作品が真に自分だけのもの[オリジナル]と呼べるでしょうか。
 その意味でもボクは、小説系専門学校に通ったところで、夢から遠ざかれど、近付くことはないと考えています。

 とは言っても別に、教育機関では小説家を育成することは不可能だと言っているわけではありません。例えばアメリカのハリウッドでは、大学の学部としてシナリオライティングを教えている。そして、プロのシナリオライターになりたければ、そのような専門教育を受けでもしないと、まず不可能なのだそうです。そのくらいに敷居が高く、教育システムが整備されている。
 そんな場所ならボクも別にとやかく言わない。でも、日本にはまず存在しません。

 ではなぜボクは、進学しろ進学しろと、口喧しく説教しているのか。小説家になるためにプラスとなるものが、大学へ行けば明確に存在するからです。
posted by はまさん at 00:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載:はま受験(完)

2007年02月09日

はま受験 志望校決定編 : 03/小説系専門学校に関する個人的な話

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 イメージしてみてください。年の頃は中高生。将来は小説家になりたいので、進学したくないと思っている。進学しなければ小説家になれるのかと言うと、かなり疑問が残りますが、そこはまだツッコまないでおきましょう。恐らくはただ単に勉強をしたくないだけなのだと思われます。で、小説家にはなりたいが、なり方が分からない。かと言って勉強もしたくないので、進学することも不可能。
 このような方がどのような進路を選択するか。大学などは勉強しなければ入れないと言うのなら、勉強しなくても入れる学校に行けば良いじゃない。かなりの確率でそんな結論に至り、小説の書き方を教えてくれるライトノベル系専門学校を目指すことになります。

 おいおい、ちょっと待ってくれよと。ちょっと待って、頭を冷やして考えてくれ。
 上に挙げた例のような、ある意味《ベタ》な方に対し、ボクは思わずそうツッコミを入れてしまいます。ツッコまずにはいられません。なぜならボクは、とある大手の小説系専門学校に体験入学をした経験があるからです。

 頃は小説修行を開始して数年目。当初はヘッポコ極まりなかったボクも、それなりに使い物になってきた折です。当時からボクは仲間内でも「技術派」を自称していました。それである日ボクは、小説系専門学校に好奇心を抱くようになった。もしかすると専門学校に行けば、いまだ自分の知らぬスーパーテクニックなぞを教えてくれるかもしれない。そして手に取った雑誌の広告には、体験入学の受付申し込み。
 ボクはその体験入学とやらを受けることにしました。とは言っても、もう自分でも腕に覚えのある身。「自分もぉ小説家になりたいって夢を追いかけたくてぇ」みたいな純朴な態度をしつつ、本音では道場破りでもしてやる気で行きました。

 で二日間の体験入学を受けた感想。いや酷かった。
 体験授業で教えてもらったことと言えば、講師自身の業界自慢話。小説作法以前の作文作法。ごくごく当たり前の一般論。作文を書かされて、的外れな添削と共に返される。ああ、あと《ハリウッドのタイムテーブル》について説明しはじめた時は、大爆笑するのを堪えるのに必死でした。実はその体験入学へ、《はまさん》ノートも一緒に持って行ってしまして。手元にある自分のノートと、講師は全く同じ内容を教えていたのですね。いえむしろ、ボクの方が細かく注釈を入れているぶん、講義の方が内容は薄かったと言えるでしょう。
 そんな授業内容にも増してボクをいらつかせたのは、同じ体験入学を受けに来た生徒たちでした。年の頃は中卒から三十前まで。ボクにしてみれば酷く内容の薄い授業を、瞳をキラキラと輝かせながら受けている。おいおい、真剣に小説家になりたいと言うのなら、なんで自分で勉強してないんだよと。《ハリウッドのタイムテーブル》に関する本なら出ているだろうと。自分もこの学校に入れば小説家デビュー間違いないよね! とかボクに話しかけているのを、受け流すのに必死でした。
 と言いますか、その小説コース講師。どうやら元シナリオライターらしく、まだ未熟だったボクの目にすら、小説に関する知識をほとんど持ってないのがバレバレでした。

 そして後日談。体験授業で書かされた作文が添削されて帰ってきました。すると何か書類が同封されている。読んでみると、君は優秀だったので入学金を安くします。ヤッタね! ……ボクは「ファッキン!」と叫び、即座に破り捨てました。
 とこれで最大手。具体名は伏せておきます。いやあ、行くんじゃなかった。良いネタになったけどね。
posted by はまさん at 00:10| Comment(3) | TrackBack(1) | 連載:はま受験(完)