2007年03月01日

「個性を伸ばす=ゆとり教育」にツッコミを入れておく 第4回

目次 : 第1回 第2回 第3回 第4回
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■文学者として教育を語る

 どうやら、ゆとり教育は失敗に終わったようですね。週休二日制の廃止など、いま政府は急いで方針転換しようとしている最中なのでしょう。
 学力低下に学級崩壊。確かに、ゆとり教育は失敗だったと思います。ですが、ゆとり教育が直接の原因となったのは、学力低下だけで。学級崩壊の方は、ゆとり教育が関係しているとは限らないのではないでしょうか。別に、ゆとり教育でも管理教育でも、学級崩壊は起こっていたとボクは考えているのです。

 たとえばの話になりますが。もしも、これだけ勉強しておけば一生必ず幸福安定間違いなし、と言う保証があったとしたらどうでしょうか。きっと誰だって喜んで勉強するに違いありません。
 知識つめこみ式の管理教育の頃はまだ、勉強することが幸福につながっていました。学歴社会がまだ健在だったからです。一流企業に入りたければ、一流大学に入れば良い。そして、一流企業にさえ就職できれば生涯の安定が得られる。
 そうやって、誰もが無邪気に信じられていた時代が確かにあったのです。その頃であれば確かに、受験戦争による弊害はあったのでしょうが、そのデメリットよりも受験を勝ち抜くことによるメリットの方が大きかった。だから誰も文句を言わなかった。

 しかしバブル崩壊により、その神話は失われます。一流企業であったとしても、安定した一生を得られるとは限らない。いつ不景気で倒産するかもしれないし、リストラされるかもしれない。頑張って勉強して一流大学に入ったからと言って、幸福になれるとは限らない。幸福になれる保証なんて、どこにも存在しない。受験勉強をする旨味が、肝心の受験生たちから失われてしまいました。
 では、なぜ勉強をしなくてはならないのでしょうか?
 学歴社会の崩壊により、真面目に授業を受けるだけの動機が、生徒たちから失われている。必要がないから勉強しない。それが、いま起こりつつある学級崩壊の正体ではないでしょうか。だから、ゆとり教育でも管理教育でも関係なく、学級崩壊は起こっていたと思うのです。
 実際、学級崩壊で暴れている生徒たちも、塾に行けば大人しくしているでしょう。厳しくすれば、体罰を復活すれば、学級崩壊が治まるとは限りません。

 じゃあ、勉強する動機さえ見つければ学級崩壊は止まるのか。止まりはするでしょうが、そんな簡単な問題ではないと思います。
 無理矢理に勉強させて「大学へ行かせる」だけなら、難しくはないでしょう。しかし生徒が「大学へ行く目的を見つける」ことが出来るか、と言うとこれは困難です。いきなり勉強する動機を持てと命令されても、心の問題は誰にも強制できません。
 動機と言うものは結局、生徒ひとりひとりの自主性の問題となってきます。ですが長い間、日本の教育はデメリットシステムを行って、生徒の自主性を押しつぶしてきました。そしてデメリットシステムとは、教師が自らの責任を放棄して、少しでもラクするためのシステムです。
 どうやれば自主性を持てますか? そう聞かれたとしても、今いる教師たちには答えられないのではないでしょうか。そもそも、今の教師たちに自主性があるとは思えませんし。そんな見たことも聞いたこともないものを説明できるわけがありません。

 現在、なぜ日本教育が荒廃しているのか。
 それは、教師が「どうして勉強しなくてはいけないの?」と言う生徒の根本的な問いから逃げ続けてきたからだと思うのです。

 教師は生徒に向き合わなくてはならない。しょちゅう出てきますよね、この御題目。しかし「生徒と向き合え」と言っても別に、対話しろとか理解しろとかワガママを聞けと言うのではありません。教育の結果に教師が責任を持てと言っている。自らの言葉に責任を持てと言うのです。
 しかし日本社会で「責任」と言うとすぐ、失敗しないのが責任である。ゆえに失敗は隠さなくてはならない。と言うことになってしまう。だがこれではデメリットシステムは改善されません。
 日本社会ではなぜか、失敗に対して拒否反応が大きい。失敗を犯した者に対しては魔女狩りが行われ、「責任」と言う名目で組織を追放される。もしくは厳罰が与えられる。いわゆる「腹を切れ」と言うやつだ。しかし人間と言うものは必ずいつか失敗を犯してしまう存在である。失敗しない人間などいない。ゆえに失敗を許さない組織においては、人材が育たない。失敗した人間はすぐ交換、では成長させてもらえる余裕がないからだ。また失敗例の蓄積も行われないため、たとえ人材を交換したとしても、必ず同じ失敗が起こることになる。でなければ、失敗を隠蔽するしかない。

 違うのだ。
 大事なのは成功することでも、問題を起こさないことでもない。失敗をしないための「責任」ではないのだ。失敗とは、再び同じ過ちを起こさないための経験である。必要なのは「次こそはうまくやってみせる」と言う発想ではなかろうか。
 例えば、将来的に起こりうる大きな失敗を避けるにはどうすれば良いか。日常的に小さな失敗を重ねることで、失敗に対する経験値を積んでゆくしかない。これを逆に考えるなら、日常的に失敗することを避けてきた、もしくは隠蔽してきた人間は、将来的に致命的な失敗を起こす可能性が大きいと言うことになる。
 だから、デメリットシステムの中で生きている人間は、成長しない。そして、自らの過ちから逃避して隠蔽してきた結果が、現代日本における教育のありさまではなかろうか。そりゃあ、そんな先生に教えられれば学力低下も起きるし、学級崩壊も起こしたくなるっつう話ですよ。

 確かに教師とは生徒と言う、生きた人間を相手にした職業である。失敗なら分かりやすいが、何が成功で何が成功でないのかは判断しづらい。ともすれば問題と失敗ばかりが目立つこととなる。ならばと言うことで、デメリットシステムが構築されたのであろう。問題を起こすかもしれないから、何もやらない。誤解を生むかもしれないから、何も伝えない。
 しかしそれって、教師としての資格があるだろうか。教師とは結局、給料を貰うための「仕事」である。教師は生徒の未来に対して責任を負っている。だが責任と言っても、失敗を避けるのではない、問題から逃げるのでもない。成功を目指す姿勢こそが、自分の職に対する責任と言うものではなかろうか。
 それをただ「失敗するかもしれないから、何もしない」って、プロ失格だと思うのだ。

 これから言うことは、小説書きなど、創作に携わる人間なら誰でも知っていることだ。
 自分の思いを他人に伝える努力なしに、世界は何も変えられない。思いだけでは、何も伝えられない。念じるだけで恋が実るのなら、この世はとっくにストーカーだらけになっているはずだ。
 そして思いを伝えるための努力とは、イコール、自分の思いが他人に「伝わらない恐怖」に耐えること。耐えてその上で、問題を解決するための工夫を積み重ねる。そうやって、失敗を恐れながらも成功を目指すのが、自らの責任を果たす、ってやつじゃなかろうか。
 こんなこと、創作者なら誰でも知っている。

 結局は、教師ひとりひとりの心の問題なのだ。そして教職は、国から保護されすぎて殿様商売になってしまっている。結果、全体として日本教育のクオリティは下がってしまった。だから時代の変化にもついて行けない。学力低下も学級崩壊も、何ら不思議な現象ではないのだ。
 別にね、管理教育でも生徒の個性を伸ばすことは不可能ではない。なぜなら、管理教育と個性を伸ばす教育とは、相反する概念ではないからだ。ただし、デメリットシステム下では、絶対に生徒の個性が伸びることはない。デメリットシステムとは、生徒の自主性を犠牲にして成り立っているシステムだからだ。そしてデメリットシステムとは結局、教師ひとりひとりの心の問題と言うことになる。「デメリットシステム」とはつまり、事なかれ主義に過ぎないのだから。

 確かに、教職とは何が成功で何が成功でないのか、分かりづらい仕事だろう。だが教師とは、生徒自身がどうすれば幸福になれるのか教える仕事だ。「伝える恐怖」に負けて、何も伝えない、と言うのは職務怠慢である。教師として給料を貰う資格はない。
 そして、自分の思いを伝える努力とは、自分が自分で自分らしく生きようとする努力、でもある。人間であれば誰でも逃れられぬ、義務のような努力だ。それを省く、と言うのは自分で自分は人間失格ですよ、と主張しているのに似た行為である。

 ……と以上、では教育者はどのような改善策を採れば良いのか。無責任なようですがボクは専門の教育者と言うわけではないので、システムの内部に関して、あーだこーだと言うつもりはありません。その資格もないと思っている。ボクは教育者ではなく、あくまで文学者です。そもそも、プロが何を素人を相手に自分の仕事の改善策を求めてるんだ、って話になっちゃいますよね。
 ではなぜそのブンガクシャ様が偉そうに教育について語っているのだ、と言うことになるでしょう。ですが、実はこのエッセイで書いた内容は、ごくごく当たり前の知識を並べただけ。その道のプロをやっている教育者なら、誰でも知っている程度のもののはずです。
 だと言うのに、なぜここまで自らの問題を放置しているのでしょうか。問題を改善できないと言うのなら、その方は教育者としてプロ失格でしょうし。また、改善なんてするつもりがないと言うのなら、その方はプロ失格以前の、人として道を誤っているとしか思えません。

 しかし、ボクと言う文学者風情でも、「言葉の責任」が持つ意味を知っています。そして教職も基本的には、同じ「言葉の責任」と向かい合う仕事のはずです。
 だが傍観者の目から見ても、教育者たちが自らの「言葉の責任」を果てしているとは、到底思えない。その行いは、言葉に携わる人間として許せなかった。全ての人間は皆等しく、その責任と向き合わなくてはならないのに、自分たちだけ逃げているのが腹立たしかった。
 このエッセイを書いたのは、そのような思いあってのことです。

 とは言っても、やはり内容としては、プロからすればごくごく常識的なものばかり。
 ですからこのエッセイは、いま現在デメリットシステムの学校教育に苦しむ、子供たちに送りたいと思います。今ある自分の社会の、飾りない姿を知っておく。自分と言う存在が、自分の喜びや苦しみや悲しみが、自分だけで存在するのではない。社会や他人との関わり合いの中で築かれたものだと知っておくのは、悪いことではありません。自分たち子供たちが苦しんでいる背景には、身勝手な大人の存在がある。そんな身勝手な大人を、みなさんは「正しく」軽蔑してほしい。その憎悪が未来を正しい方向へと導くこともあるのだから。
 ……なんてね。当の「身勝手な大人」たちは教えてくれないでしょうからね。



 あれっ? なぁんだ、ボクってば文学者なのに、教育者よりもマトモな教育っぽいことを言ってるじゃん。不思議だね。
 とオチを付けて、以上でこのエッセイを終わらせて貰います。
posted by はまさん at 01:06| Comment(4) | TrackBack(0) | 連載:はま受験(完)

2007年02月26日

「個性を伸ばす=ゆとり教育」にツッコミを入れておく 第3回

目次 : 第1回 第2回 第3回 第4回
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■子殺しの教育システム

 日本の教育は基本的に、「デメリットシステム」により行われている。何かすることのメリットよりも、失敗した時のデメリットを教えられる。すると子供たちは、自発的に何かをすることは悪いことだと考えるようになってしまう。この点、ゆとり教育も管理教育もあまり変わりはない。
 例えば、詰め込み型の管理教育ならば。受験勉強だけをさせておけば、教師はすごく授業がラクになる。生徒に何を教えれば良いのか、自分で判断しなくても良いからだ。
 そして、ゆとり教育と言うのも結局は、授業数を減らして学力低下を招いただけだった。ゆとりと自由の大義名分の元に、生徒を放置していただけである。だがこれも教師としては、すごくラクなのだろう。何しろ、生徒の面倒を見る手間が少なくなったのだから。

 ただひたすら、デメリットシステムにより生徒は何も問題を起こさないことだけを教え込まれる。悪いことはさせない、でも良いことも後が面倒臭いのでさせない。何もしない大人しい子は教師にとって一番ラクな存在だ。
 ゆとり教育と管理教育。どちらにも言えることがある。それは、いかに大人が子供の責任を負わないようにするか、と言うことしか大人が考えていないのだ。子供が何か過ちを犯したなら、代わりに責任を負う。それが大人と言うものだ。だがその肝心の大人が、子供のためを考えないようになった。

 そう考えると現状の学校システムでは、「個性を伸ばす教育」を行うことが出来ないのも納得が行く。
 社会的に必要な個性とは、単なる特殊性を指して言うのではない。子供が自分の意思で、自分の問題を解決できるようにする。確かな主体性・自主性を持たせる。これが真の意味での、個性を伸ばす教育と言うものだ。
 だが生徒が主体性を持つと、教師にとって生徒が制御不可能な存在となりうる。主体性を持つと言うことは、生徒が自分の意思で行動すると言うことだ。それは同時に、何らかの問題を起こす可能性があると言うことでもある。デメリットシステムのままでは、生徒の個性を伸ばす教育を行うのは絶対に不可能なのだ。
 更には、生徒が主体性を獲得することで、教師はもっと大きな困難に向き合わなくてはならない。

 主体性を身に付けるには、問題解決能力が必要だ。そして問題解決能力の修得には前提として、問題発見能力が必要となってくる。もしも、個性を伸ばす教育によって生徒の主体性が成長すると、問題発見能力も成長することになってしまう。つまり、教師が間違った行いをした場合、生徒から批判される恐れが生じるのだ。
 ゆとり教育でも管理教育でも、競争が行われていると言う点では違いはない。管理教育では受験戦争に打ち勝つため、より多くの知識を詰め込んだ者が勝者とされる。ゆとり教育ではデメリットシステムの下、教師に手のかからない「いいこ」が優等生として選別される。
 確かに優劣で人間を語るのは簡単なのだろう。だが、他人を評価して優劣を語る人間に限って、自分は絶対的優位にいて揺るぐことはないと信じ込んでいる場合が多い。ではそんな、優位にいる人間が劣る立場に追いやられるとしたら、どうするのか?

 「学ばれる」立場にあると言うことは、自分から学んでいる人間が、自分より上位に立つかもしれない。と言うような恐れが常につきまとう。デメリットシステムは、その恐怖から教師たちを守ってくれていた。
 だが、個性を伸ばす教育によりデメリットシステムが崩壊してしまったらどうするのか。自分が、自分の生徒に追い越されてしまうかもしれない。全ての教師がそのような恐怖と立ち向かわなくてはならなくなってしまう。

 教育とは時代のニーズによって内容が変わってくる。そしてこれからの時代は、個性ある人材が求められるようになってくるのは間違いない。だが肝心の、個性教育を行える教師が、日本にはほとんどいない。それも当然で、ずっとデメリットシステム教育を行っていた日本では、きちんと自分の頭で考えることが出来る、自主性の訓練を受けた人材が育っていないからだ。個性教育を行おうにも、現在の教師にそもそも、自主性を持って行動できる人材がほとんど存在しない。
 そうやって、自分の頭で考える能力を持たない人間が集まった結果。授業数を減らせば、ゆとり教育になって個性も育つだろう、なんて迷走した方針を打ち出すことになる。いやもしかして陰謀論になってしまうが、ゆとり教育もデメリットシステムを少しでも長引かせるための企みだったのかもしれない。

 時代の変革期には必ず、旧世代と次世代との衝突が起こるものだ。旧世代はかつて自分たちが独占していた既得権益の旨味を忘れられないものだ。ゆえに旧世代は必ず、次世代の芽を叩いて潰そうとする。
 もしもこのまま、デメリットシステム教育が必要とされなくなったらどうするか。旧世代の教師たちは、個性教育によってきちんと自主性の身についた生徒たちに、追い越されてしまうかもしれない。もしくは次世代の、個性教育の訓練を受けた若い教師たちに追いやられて、職を失うかもしれない。
 その恐怖に突き上げられて、旧世代は次世代を攻撃することになる。未来を犠牲にしてでも、今ある自分たちの利権にしがみついていたいからだ。これも時代の変革期には珍しくはない。現在とは喩えて言うなら「親が生き残るために子を食い殺す」時代なのだ。

 そんなことはない、親はいつだって子供のことを考えてくれている、とお怒りの方もいるでしょう。ですが、全ての親が子供のためを思っている、のかと言うと悲しいかな答えは「否」としか言えない。世の中を探せば、そんな酷い親が存在するのも確か。ましてや、赤の他人である教育者だったとしたらどうだろう。
 「子食い」の分かりやすい例が受験戦争だ。今や学歴社会もかなり崩壊しつつある。高学歴を持てたとしても、一流企業に就職できたからと言っても、幸福になれるとは限らない。そんなこと、今では誰も知っている。しかも、日本では受験の歴史も長い。受験戦争で心を病んでしまう者が多いことは、既に統計として出ているそうだ。
 だが受験戦争は終わらないどころか、一部では激化している感すらある。例えば、必修科目の未履修問題。あれにはボクも頭に来た。「必修」とは単に「国が決めた、必ず修めるべき知識」と言うだけの意味ではない。現代日本社会で日常生活を送るために「修めることが必要な知識」だからこそ「必修」と言うのだ。受験に合格させることだけを考えて、生徒の生きるスキルを不足させてどうすると言うのか。
 心を病むかもしれない。生きるための知識すら与えられない。過剰な受験戦争が子供たちに幸福を与えないことは明らかである。

 だが受験戦争は終わらない。何しろカネになるからね。問題と弊害の多いシステムも、利権が絡むと中々変革されないものです。
 最も簡単な金儲けの方法は、いつの世も、強者が弱者から搾り取ることである。何しろ弱者が相手なら、反撃される恐れもありませんから。そして、子供たちほど際弱の存在はいない。子供相手のビジネスは、強者にとって最も旨味のあるエサなのである。
 だから「子食い」は現在と言う時代の必然なのかもしれない。

 ……だが考えて欲しい。
 いくら旧世代の人間が、時代の流れを阻害しようとしたとしても。またその阻害により、次世代にどれだけの犠牲が出たとしても。時代の流れは止められない。時計の針を進めることや遅らせることは出来ても、戻らせることだけは絶対に不可能だ。そして、教育は常に時代のニーズを反映する。早晩遅からず、デメリットシステムの庇護を受けていないと授業を出来ない教師は、職を失うことになるのは間違いない。
 また「子食い」と言うのも実際は、収入の前借りのようなものだ。もしくは、来年の種籾を食べて、今日の飢えを凌ぐようなものと思って良い。いつか必ず、因果は自分たちに返る。今の苦労を惜しんで、将来もっと困ることになるのは、当の自分たちなのだ。
 だからこそ、今は少し苦しくても、明日のために種を蒔かなくてはならない。十年後、百年後のため。本来、教育とはそのようなものであったはずなのだから。
posted by はまさん at 00:14| Comment(2) | TrackBack(0) | 連載:はま受験(完)

2007年02月25日

「個性を伸ばす=ゆとり教育」にツッコミを入れておく 第2回

目次 : 第1回 第2回 第3回 第4回
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■個性はどこにある?

 これからの日本教育はどうあるべきか。今もきっと、有識者や教育関係者や政治家の方々が、日々激論を戦わせているのでしょうね。
 将来的に、個性ある人材が求められることにある。これはどうやら間違いないらしい。しかし旧来の押しつけ教育では個性が伸びない。じゃあと言うわけで、「個性を伸ばすゆとり教育」をやってみたのだけど、なんだか低学力化が進んだだけで終わってしまった。どうやら、ゆとり教育は失敗だったらしい。
 さて、どうしよう。

 確かに。押しつけ教育のままでは、もう既に現代社会にあっていません。いろいろと問題も噴出して当然です。だって、今のような管理教育のシステムが確立されたのは、百年間ですもの。だからボクも「個性を伸ばす教育」には賛成します。旧来の管理型教育システムを改革することにも賛成します。
 ですけど、なんで「個性を伸ばす教育」=「自由なゆとり教育」なのか理解できない。個性とゆとりとは、セットになっている存在ではないと思うのです。

 いや、本当は何となく分かっていますよ? お偉いさんたちの思考回路。
 押しつけ教育では個性が育たない。では、押しつけとは逆のことをやれば良いんじゃないか。よし、それなら自由なゆとり教育だ。ガキをほっぽらかしにしとけば、勝手に個性が育つだろう。ところで個性って何だ? いや自分も個性を伸ばす教育なんて受けてきたわけじゃないし、知るわけがないじゃないか。でもまあ、押しつけ教育とは逆のことをやっているのだし、きっと個性が育つに違いない。それにほら、いま学校で学級崩壊とかいろいろ問題が起きているだろ。あれ絶対に押しつけ教育のせいだろうとね。さもなくば、管理教育をやめたくて堪らない。自由という言葉が好きで堪らないなどの、狂信的な理由があったのかもしれません。
 どのみち、管理教育は失敗したから「悪」に違いない。と言う思考停止がそこにはあったに違いありません。しかし実際には、ゆとり教育にした途端、学力は低下する。学級崩壊などの問題も解決する方向に向かわない。むしろ諸問題は悪化している。まあ、組織のトップに立つような人間には無能しかいないのは、日本の伝統ですから仕方がありませんね。

 いつでも教育の意義とは基本的に、有用な人材の育成にあります。子供たちが将来、社会で幸福に生きて行くための知識・スキル・ツールを身に付けさせる。これが学校と教師の役割です。
 そして現在、大量消費社会が終わりつつある。個性こそが最高の価値となる時代が到来しつつある。いつまでも管理教育システムのままで、協調性ばかり教えていても、子供たちは将来ぜったいに幸福になれない。それは教育関係者なら全ての人間が把握していて当然です。知らないのなら、その人は単に勉強不足なだけで。
 しかし、将来を見据えた場合、個性を身に付けさせれば良いのだとして。ではその肝心の「個性」とは一体なのか。充分に議論が行われたのか、ボクには疑問です。

 簡単に考えて、「個性」とは「固有の特性」のこと。その人だけが持っている、もしくは他に持っている者が少ない特性を指して、「個性」と呼びます。「誰にでも出来ること」、「誰でも持っているもの」を個性とは呼びません。
 ところが人間はかなりの確率で、肉体的に同じような性質を持って生まれて来ます。基本性能は大して変わらない。
 足の短い長いだって、基本範囲内。最長と最短で10倍は違って当然、なんてことはありません。顔についている目鼻口などの器官も、よほどのことがない限り、数は同じです。人によって目の数が違って当然、なんてことはありません。人間の基本特性に、そんな大きい振り幅があるのなら、人類はもっと違った社会システムを構築しているはずです。
 ですから生まれついての才能だけで、目指すジャンルのトップクラスになれることは、絶対にありません。小学生の頃なら生まれついての差で一番になれたとしても、競争社会のトップに近付くにつれ、天性の差は少なくなってくる。「五つ神童、十で天才、二十歳過ぎればただの人」と言う文句があります。生まれもっての資質なんて、プロの世界にでも行けば、珍しくも何ともありません。
 長期間の訓練を積んできた人間に勝てる素人は存在しません。イヤボーンで解決できる困難なんて世の中には存在しません。才能とは、努力と工夫と情熱と時間を積み重ねた、てっぺんにしか存在しないものなのです。
 と言うわけで、「個性=天性の才能」と考えるのは間違い。

 すると次は「個性=性格」だと考えれば良いのかと言う話になります。だがこれも正しくはありません。
 確かに人には、好き嫌い、向き不向きがあります。好き嫌いや向き不向きによって、スキルの修得スピードは、人により格差となって現れてくる。だからと言って、ラクばかり、怠けてばかりでは何も成し遂げられない。
 いくら自分では「個性」を持っていると、いくら信じていたとしても。その「個性」が社会にとって有用でなければ育む価値はありません。例えば、屁がとてつもなく臭い才能とか、人を不快にさせて喜ぶ才能だとか。まず用途は存在しないでしょう。
 教育対策にかける費用だってタダじゃないんですから。学校は「個性という名の異常性」を育てる場ではありません。必要なのは「個性」自体ではなくて、「社会に必要とされている有用な個性」を伸ばしてやることです。

 では教育の場で伸ばすべき「個性」とは一体どのようなものなのか。
 社会的に見て、個性とはスキルにより決定します。何が出来て、何が出来ないか。どのような資格を持っているか。どんな学歴を持っているのか。ちなみに協調性や適応性、向き不向きなど。性格的適正はスキルのうちと言うことになります。
 適正を持って「ない」のは、個性として誰からも認められることはありません。

 とこのように考えてみると、ゆとり教育がなぜ失敗したのか。理由が分かってはこないでしょうか。
 現在は、大量消費社会からブランド化社会へと移行しつつある。だからと言って、大量消費のシステムが消えてなくなるわけではありません。大量消費社会のシステムに、より高度な次元の価値観がプラスされると言うだけの話です。
 つまり、旧来の管理教育が育んできた、協調性の教えが不必要になったわけではない。協調性に加えて、更に個性も求められるようになった、と言うことなのです。ですから個性をはぐくむ教育は、管理教育より難しく高度だと言うだけである。ゆえに、個性教育と管理教育は別に、相反するものではないのです。
 ただ単に授業を減らしたって、アホを大量生産するか、塾を設けさせて受験戦争を激化させるか。どのみち個性ある人材の育成にはつながりません。

 ……じゃあ、ゆとり教育とは一体何だったのか。旧来の管理教育を否定するだけ否定しておいて、ならば教師は何を教えていたのでしょうか?
posted by はまさん at 10:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載:はま受験(完)

2007年02月24日

「個性を伸ばす=ゆとり教育」にツッコミを入れておく 第1回

 はま受験を書くために調べ物をしていると、気が付けば、なんだか教育論に関して詳しくなってしまいまして。せっかく得た知識がもったいないので、今のうちにエッセイ化させてもらいます。ただし「文学者が語る教育論」と言うスタンスは変わらない……つもり。
 それから、もー面倒臭いし関連していないわけでもないので、このエッセイ連載は「はま受験」のカテゴリにさせて貰います。ただ連載と言っても、さっさと終わらせます。今度こそ。
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目次 : 第1回 第2回 第3回 第4回
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■戦争が現代教育を作り上げた

 又聞きの知識で悪いんですが。
 現代教育のシステムは、産業革命時にその雛形が出来上がったそうです。それまでは封建社会で、牧畜か農業が主な産業だった。必要な知識は村の教会に集まって牧師様に教わる。でも、日の出と共に仕事を始めて日没と共に仕事を終える、と言うマイペースな人間ばかりでは、大量消費社会に合いませんでした。大量消費社会で求められるのは、同じ品質の製品が作れることです。そこで大量消費社会を担う工場作業者として、社会は「誰とも同じことが出来る」人材を求めるようになりました。

 しかも、産業革命の頃から戦争の形態が変わってくることなります。
 封建社会の頃まで戦争は、例えば騎士や職業軍人など、貴族階級の役割でした。なぜならそれまでの武器・兵器を使用するには、長期間の訓練が必要だったからです。つまりは、幼い頃から武芸の稽古を受けた人間でないと、とてもではないが戦争い参加できなかった。貴族は生まれつき貴族の家系ゆえに特権を持っているのではないのです。戦士階級は幼少より特別な教育を受けている。そうした特別なスキルを受け継いでいるがゆえの、特権なのです。
 しかし科学技術の発達により、兵器も発達する。特に火薬の発明です。火薬を使った兵器により、誰にでも簡単に人を殺せるようになってしまった。それこそ無双を謳われた勇者であっても、卑怯者が放った一発の弾丸によって殺されてしまう。こうして、兵器さえ持っていれば、少しの訓練しか受けていない民兵でも戦争に参加できるようになりました。戦争の中心は、騎士から民兵へと移り変わることとなります。階級制度の崩壊した、平等社会が誕生した瞬間です。

 兵隊を育てるための軍隊教育に必要なのは、規律の正しさです。すると社会全体として、集団生活の出来る協調性を持った人材のニーズが激増することとなりました。
 実は兵隊とは本来、騎士の代わり、ですから就職先として待遇は悪くなかった。特に下層階級の生まれから逃げるためには、国の支援で教育を受けて、兵隊になるのが定番の最短コースだった。ならば親だって自分の子供を、社会的に有用な大人にして、少しでも良い職にありつけるようにさせたい、と言うのが人情でしょう。
 これは日本も似たようなものですね。特に明治時代以降。明治政府は欧米列強の侵略に対抗するため、富国強兵政策を打ち出すこととなります。そして富国強兵政策の要となるのは、まさに工業力と軍事力でした。つまりは、少しでも練度の高い兵隊と工場作業員が、少しでも大勢必要とされていたわけです。

 需要があれば供給も生まれるのものです。教育の目的は、社会にとって有益な人材の育成ですから。以上のような事情が重なり合って、協調性と集団行動を目指す管理教育のシステムが完成することとなりました。これが現代にまで至る教育システムの原形と言うことになります。そして日本も明治時代、欧米から管理教育システムを導入することとなります。
 ですから現代日本教育の本質とは、ゆとりだ何だと叫んだところで、基本的には管理教育です。よほど大胆な構造改革でもしない限り、この性質は絶対に変わることはありません。

 ……そして、百年くらいの時が過ぎました。
 実は今の時代って、産業革命から続いた大量消費社会が終わろうとしているそうです。と言っても、大量消費型の工業システムがなくなると言うわけではありません。「大量消費」のための生産活動が、最高の価値でなくなると言うだけの話です。理由は簡単。儲かるからって、みんながみんなで大量消費型工業生産をやっていたら、モノが溢れてしまい、儲けが少なくなってきたんですね。それこそ、大量消費される商品の工場なら、人件費の安い発展途上国に作った方が安上がりになっちゃう。

 じゃあ、これからの時代で何を作れば一番儲かるのか。それはズバリ、他人に真似できない商品です。例えば、イタリアって政治は腐敗しているし産業も国際化の波がどうとかでズタボロ。でも伝統的に芸術が発達している国なので、とてもデザインに優れた商品を次々と作っている。その意味では景気は悪くないとか。
 あとデザインと言えば、中国で最も売れている烏龍茶って実は、日本製なんだそうです。売れている理由は、デザイン性の美しさと、製品的な信頼性。つまりはブランド力の差ですね。

 そんなこんなで、これからの社会に求められる人材とは、次世代のブランドを築き上げられるような、個性のある人間と言うことになります。他の人と同じことしか出来ない、協調性以外に取り柄のない人間は、低賃金で働けってことですね。「格差社会」って言葉を良く耳にしますが、その格差社会がやってきているのは、そんな事情「も」あってのことだそうです。
 と、ここまでが予備知識となる前振りです。




 余談ですが。実は封建時代まで、戦争による非戦闘員の被害は、ごくごく少ないものでした。ところが火薬による兵器の発明は結果、軍人以外の戦争被害者、すなわち一般市民の被害者を激増させることとなります。なにしろ敵国の軍事力を壊滅させるためには、同時に工業生産力を壊滅させなくてはいけませんから。戦争の目的は、虐殺、ジェノサイド、ミナゴロシとなりました。
 戦士階級が崩壊し平等な社会が到来した代わりに、全ての国民が年齢性別の差なく殺される時代の到来です。めでたくなし。
posted by はまさん at 00:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載:はま受験(完)

2007年02月20日

はま受験がようやく \(^o^)/ オワタ

 最初はさあ、ごくごく簡単なものだったんだよ……。
「はまさーん、小論文ってどう書けば良いの?」
「原稿用紙を三分割すれば書きやすいんじゃね?」
「わかったよ、はまさん! 明日はホームランだ!」

 でもこれってブログで公開したら面白いと思って書き始めたんだ。2〜3回も書けば良いかなーって。でも大学の恩師に「論文を書くときは自分がなぜこの論文を書こうと思ったのか、序論をきちんと書きなさい」と教えられていた癖が出てきて、どんどん量が増えてくる。

 最終的には400字詰め原稿用紙で、226枚って……。
 ボクはバカか。 orz

 その間にも相談を持ちかけてくれた当人は、さっさと大学合格を決めてしまうしね。そう言えば今日、親戚の子がめっちゃ高偏差値の大学に合格したとの報せを聞きました。(ちなみにボクは親族血縁にはこのブログの存在を知らせていません。)何にせよ、めでてえ話です。
 まだどこにも受かっていないと言う方は……まあ何だ……強く生きろ?



 さてこの後は、まだちょっと教育関係について、脳内に残っている知識があるから、さっさと総ざらえするつもりです。それで、もうボクの教育論は終わり!
 そうしたら、書いている途中になっている作品を書き上げちゃおうと思います。

 今の目標は、脳みその中にあるコトバを全部吐き出してしまうこと。それこそ、書きたいことがなくなってしまうくらいに。
 がんばりまっす。
posted by はまさん at 00:10| Comment(3) | TrackBack(1) | 連載:はま受験(完)