2006年07月07日

重ね重ね、余計なお世話なんだけどさぁ

 あはははは。
 ネット巡回をしていて、また地雷を踏んじゃった。とある小説創作支援系サイトの掲示板に、こんな書き込みがされていたのを読んでしまったのです。
小説はどこまで行っても漫画には勝てませんよね。
みんなは、絵が上手かったら小説ではなく漫画を描きますか?
自分は本当は漫画を描きたいのだけど、絵が下手なので小説を書いています。

 久しぶりに、ボクの逆鱗ジャストミートでした。もう我慢できない。怒りでヘソまで股が裂けそうだわ。ファッキン。

 だってね。このカキコを意訳すると「小説は漫画に勝てないヘボメディア。漫画を描くには絵の練習が必要だけど、小説なら誰にでも書けるぜ」と言うふうにも読めちゃいませんか?
 このカキコ、たぶん絵描きさんが読んでも良い気はしないと思います。だってね、この人に努力の跡が見えない。

 ボクはね。知っているのですよ。
 上手な絵を描くのに、練習が必要らしいことは、どうやら誰にでも理解できます。しかし努力はしたくない。そう言えば自分は日本語を読み書きできるじゃないか。じゃあ小説を書けば良い。小説を書いて、自分でも知らなかった眠れる才能が都合良く覚醒。将来的にはぬるま湯に浸かったような毎日を送れるんじゃないか。
 ってね。そんなことを考えて、小説書きの世界に、いわゆる「厨房」が殺到しているってことを。

 だけど、本当は少し考えればわかるはずです。
 バイトにだって新人研修期間と言うものが存在します。どんな仕事だって、正社員として雇われて一人前になるまで、何年もの下積み期間を必要とします。
 じゃあ、多くの人にとって憧れの職業である小説家となるために、他の仕事みたいな下積み期間は必要ないのか。んなわけがない。どんな道だって極めるためには、相当な努力が必要なことくらい。考えなくても理解できるはずです。

 しかもこのカキコ。「絵が上手かったら小説ではなく漫画を描きますか?」ってね。この一文を読んで、ボクの知り合いで絵描きをなさっている方は、たぶん大激怒していると思います。
 最初から上手な絵を描ける人間なんて、いるわけないじゃないか。
 それは小説も同じこと。生まれつきに面白い小説を書ける人間なんて、いるわけありません。

 喩えばの話ですが。
 自然界に存在する、いろんな生物はたいてい、誕生した瞬間から、自らのちからで生き抜こうとする努力が可能です。生まれ落ちてすぐに、立ち上がることが出来たり。その目で周囲を見ることが出来たり。外敵から自分の身を守ることが出来ます。
 しかし人間の赤ん坊は、自立も出来ない、目も見えない、とても未熟な状態のままで誕生します。大人の助けがなければ、とてもではありませんが生き抜くことすら不可能でしょう。ではなぜ、人間はそんな未熟なままで誕生するのか。
 それは、多くのことを学ぶため。環境に合わせて、自らの望むままに、自分自身を作り上げることの出来る存在。これが人間と言う生物の特質です。

 ですから。
 才能を言い訳にする人間。努力をしない人間。そのような人間を、ボクは人類[ヒト]として認めたくはありません。
 生まれた瞬間に人生の全てが決定しているのなら。努力なしに何でも成し遂げられるのなら。生きている必要性って、ないじゃないですか。

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 あとですね。「小説はどこまで行っても漫画には勝てません」ってのも、フザケた話ですよね。そんなこと、誰が決めたんだって話ですよ。

 また喩え話になりますが。
 地球最強の格闘技は何かって訊かれて答えられるか。返答はノーです。戦況の有利不利ならあるでしょう。でも、戦う前から既に勝敗の決まりきった勝負なんてのものはありません。実際に戦うまで、結果なんてわからないものです。
 では何が戦いの勝敗を決するのか。
 身に付けたジャンルではない。どんな戦いでも、戦う人間が持つ力量の差こそが勝利を呼ぶのです。

 これは小説や漫画でも同じ。ビジュアル的なアクションシーンに限った話でも。素人がテキトーに描いたヘボ漫画より、名匠が精魂込めて書いた小説の方が、面白いに決まっています。
 つまりはね。

 白帯が一人前に最強を語るな、ってことです。

 確かに「小説はどこまで行っても漫画には勝てない」と言うのは一般論としては理解できるでしょう。でもそんなの、所詮は他人の意見に過ぎません。
 問題は、人の意見に流されて自分で物事を考えない。追求しない。解決しようとしない。そうやって、自らで自らの可能性を閉ざしている。このカキコをされた方自身かもしれません。
 いやどうせボクも確かに。世界の大半は、そんな人間ばかりだ。ってのは知ってはいますけどね。

 「真の才能とは、努力を楽しいと思える才能だ」とか言うコトバって、誰が言ってたのだっけ?
 最低でもボクの知っている、真剣に小説書きに取り組んでいる方々は、そのような人ばかりです。でも、じゃあ最初から辛くなかったのかと言うと、そんなこともないはず。
 憧れでその道に入り。強制と惰性で努力を重ね。いつの間にか腕が上がり。遂に、自らの手で自らの価値を作り上げる素晴らしさを知ってしまった。それは人間が持ちうる、最高の快感。ゆえにもう逃げられない。あとはもう追い求めるのみ。
 最初から「好きだから努力した」なんて人間はいません。努力したからこそ好きになれるのです。

 ゆえに。
 小説を書くことに対して真剣に取り組んでいる人々は、コトバに宿るちからを信じています。それは既に信仰にすら近い。
 小説と漫画のどっち? じゃないんです。そうやって、小説以外に書けなくなったからこそ、小説を書いているのです。

 ボクが立っている、そしてこのカキコをされた方が立っている。既に「この場所」は戦場です。戦場であり聖域です。不用意に土足で踏み込んで良い場所ではありません。不用意に立ち入って、頭を銃弾で撃ち抜かれても、何も文句は言えない場所です。
 と言うわけで当エントリは、その「うかつな人間」に対する威嚇射撃です。あなたはこの文章に共感を覚えていただけたでしょうか? それとも不愉快になられたでしょうか?
posted by はまさん at 02:16| Comment(5) | TrackBack(0) | 連載:余計なお世話(完)

2006年05月26日

最後に、余計なお世話でしょうが 〜 スタートライン 〜

 これの続き。もうラストです。

   余計なお世話でしょうが
   余計なお世話でしょうが 2

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 明治時代からずっと小説家と言う職業は、わかりやすい立身出世の手段だったそうです。つまりは、自分も小説家になってガッポガッポ金儲けするぜー、みたいな人間が大勢いたのですね。今と同じように。
 ただ現在の状況は、少し変わったと思います。今では小説の執筆が、《自己実現》のツールになっている。
 これは、日本近代小説の持つ特殊な伝統のせいではないかと考えています。日本近代小説の伝統、すなわち私小説。自分のことを書くことがイコール、小説を書くことであったたような伝統が、日本には長らくあった。おかげで小説とは、自分のトラウマとか、箱庭療法のために書くものである、みたいなイメージが定着してしまったのではないか。
 これをわかりやすく表すと、以下のようになるでしょうか。

  【むかし】
    デビュー → 経済的自立 → 自己実現
  【いま】
    デビュー = 自己実現

 でも本当は、作家としてプロデビューしたからって、自己実現につながるとは限らないんですよね。じゃあ、小説家になりたいって言っている人たちは、何のために小説家を目指してるんだろう?
 ……きっとね。小説なんてどうでも良いんじゃないかな。ただ、チヤホヤされたいだけで。

 先述した掲示板での話です。そこで「プロットは必要か?」みたいなカキコがされたことがありました。
 それに対するレスと言うのが、「作った方が良いかもしれないけど、自分は面倒臭いのでやらない」、「プロットなんていらないんじゃね?」、「むしろプロットなんてない方が、自分はイケてるタチなんでー」のようなものばかりだったのです。
 まあ、これを見た瞬間にもボクは思わず、イラッと来ちゃいましたよ。
 実はボクも《プロットは作らない派》でした。理由は面倒臭かったから。でも小説修行のために、映画やドラマを見る際は《ハリウッドのタイムテーブル》で時間を計りながら見るようにして。そのうち、眠っていても夢の中にまでタイムテーブルが出てくるようになって。自分が書いているストーリーが、どれだけ幼稚な構成をしているのか、わかるようになった。わかるようになったけど、その構成技術を活かすことが、当分はできなかった。理由は簡単。やっぱり面倒臭がって、あらかじめプロットを切らずに、書きながら内容を考えていたからです。
 そのうちに、やっぱり欲が出てきた。《上》を目指したくなってきた。でも、書きながら構成について考えるなんて芸当、どうやらボクには無理だったようです。それで仕方がないから、最初は単なるアイデアメモだったけど、あらかじめ準備をするようになりました。今のボクが前もって準備しているプロットは、その頃より、かなり精緻になっているかもしれません。ただ、その頃のアイデアメモの延長線上にあります。

 もちろん、プロ作家の中にも、プロットを切らないと言う方は大勢います。それこそ文豪クラスの方の中にも。でもそれって、構成を頭の中で全部やってしまっている、ってことなんですよね。ボクには考えるだに恐ろしい。とてもじゃないけど、やれません。
 ある作家は作品を書いている最中、シャツを何枚も着替えると言います。なぜか。書いていて、あまりの疲労に、大量の汗をかいてしまうからだそうです。おかげでその作家さんは、作品を一作書き上げるだけで、数キロはやせてしまうとか。……伝説ですけどね。
 ボクみたいな凡才には、そんな真似とうてい不可能です。かと言って、命を削りながら小説を書く、なんてのも御免被りたいところ。
 ボクがプロットを切るようになったのは、ラクをするためです。かと言って、ラクをして作品の質を落としては意味がない。ラクをしつつ、《上》を目指したいからこそ、プロットを切ると言う《工夫》をするようになった。
 先の掲示板でプロットを切りたくない、と言う方は、どのような意図があるのでしょうか。《上》を目指したくないのでしょうか。命を削る作業が気持ちよくてたまらないのかもしれません。まあ、過去の文豪をも軽く超える天才だから、プロットを切る必要も、命を削る必要もない、と言うことだけはありえないでしょうが。

 別に、趣味で小説を書く、と言うのをボクは否定しません。現状で満足すると言うのは、それはそれで清い生き方です。でもソコは、プロになりたいとか、上を目指したとか言う人ばかりの場所でした。
 と言うわけで、ボクはひとつの結論を得ました。小説家にはなりたいけど、努力はしたくない。テキトーに書いた作品を読んだ人が、たまたま高評価を自分に下してくれないかなあ。小説家を目指しているような人間は、全てではないが、大半がそのような人間ばかりである、と。

 万能感を求めることは、人間として否定しません。万能感は、情熱、モチベーションの源泉となります。それが努力につながれば良い。ただ、努力も結果もなしに万能感を求めるのは、単なるワガママに過ぎません。無償で全存在が承認されるのは、生まれたばかりの赤ん坊だけです。世の中の人間、全てが自分の家族ではありません。認めてもらいたければどうしても、役割を果たすこと、価値を作り出すことが求められる。それが良いのか悪いのかは知りません。ただ、そのことが事実であるのは確かだ。
 ただ何もしないのに、愛されるなんてことはない。イケメンだって、《顔》と言う価値を所有しているからチヤホヤされているのです。もちろん、価値交換により存在を認められ、その結果として、自分の全人格を肯定してくれる人と出会える、と言うのはありうるでしょう。もしかするとそんな人を、親友と言ったり、恋人と呼んだりするのかもしれません。

 モテたいからバンドを始めました。チヤホヤされたいから小説家を目指しています。クリエイターを目指すのに、そういった動機を持つのを、ボクは否定しません。ただ考えて欲しい。じゃあ、実際クリエイターになってもその動機が果たせるとは限らない、と知ったらどうするのか。見返りがなくなったらどうするのか。やめるのか。
 呪術的思考は人間にとって悪いものではありません。幼い子供が大人の真似をする。それは、自分の中に《オトナ》を作る作業です。同じように、モテたいからバンドを始める。チヤホヤされたいから小説家を目指す。自己実現したいと言っても、そのための方法がわからないから、とりあえずは誰かの真似をしてみる。その結果、最終的に大事なことを学べたら良いのです。
 ただ勘違いしてはならない。目標を達成するのと、自己実現するのとは別物です。認められるのは作品であって、作者自身ではありません。

 じゃあ、はまさんよ。テメエはなんで小説書きでいるんだ、なんて疑問を持つ方もいるかもしれません。
 そうですね。ボクが小説を書くのは、他の誰のためとかではない、小説のため。気取った言い方をするのなら、読者と作品への奉仕のため、とでも言えば良いでしょうか。小説に対するボクの欲望は、読者と作品が《主》で、自分が《従》となっています。恐らくは。
 そもそもボクがこんな考え方の人間なので、「プロのラノベ作家になって、左うちわの生活をしたい」だなんて人間。エゴの充足を目的としている人間。自分が《主》で、読者や作品を《従》としか考えられない人間に対して、反感をおぼえてしまうのでしょう。それって、お金を横領しても悪いと思わない天下り官僚か、賄賂を貰って私欲を肥やす悪徳政治家みたいなものじゃないか、って。
 確かにこれは、特殊な感覚なのかもね。例えば、ボランティアに熱心な人の中にもいるでしょう。他人の喜びこそが、自分の喜びと言う人が。それと似ているかもしれません。良い作品が書けたから嬉しい。読者が感動してくれたから嬉しい。わからない人には、どうやったって絶対にわからないかもしれません。

 ただこれが、プロの小説家になると、また事情が変わってきます。理想や自己実現、読者と作品への奉仕、そんな綺麗事を言っている暇すらありません。プロは、会社に対して利益を与える義務があります。大勢に対して責任を負っている。自分のことなんて言っていられない。
 プロの小説家をやっている方と、ボクが話をした時のことです。その方は、こう仰いました。「作家とは一日二十四時間ずっと、寝ている間も、書く小説のことばかり考えている。しかもそんな生活を、一年365日続けて、休日もない。残業代も出ない」と。
 ちなみにその言葉に対するボクの返答は、「それは夢のような生活ですね」でした。
 加えて言うなら、プロの小説家として高収入どころか、生活できるだけの収入を得られるかどうかもわかりません。食える確率も低い。そんな事情はどうやら、明治時代から変わっていないらしいです。出版バブルなんて時代はどこにもなかった。
 つまり「デビュー → 経済的自立 → 自己実現」なんて公式が成立することは、滅多になかったのです。
 でもみんな書いている。

 面白い作品が書きたい? うん、ボクは応援しよう。
 上達したい? うん、応援しよう。
 プロになりたい? うん、大変だろうとは思うけど、応援しよう。
 でもボクは、「自己実現のために小説家になりたい」とか「金持ちになるために、小説家になりたい」と言う人間は応援できかねます。もう一度言うよ。認められるのは作品であって、作者自身ではありません。
 それが嫌ならやめた方が良い。自己実現したいのなら、まずカウンセラーに相談した方が良い。金持ちになりたいのなら、小説家以外の職に就いた方が手っ取り早い。なぜならその行為は、サッカー選手にはなりたいが、足を使いたくない、キーパーも嫌、そもそもサッカーボールを見ているのも嫌、と言うようなものだからだ。
 人の大事な聖地に土足で踏み込むような人間は、殴られても仕方がない。適正がなかったのだ。やめた方が良い。

 もうひとつ、ボクがある方のお話を聞いた時のことだ。その方は、とある詩人だ。ただし現代日本を代表するくらいに有名な方だったらしい。らしい、と言うのは、その話をした時、ボクはその方のことを良く知らなかったからだ。考えてみれば、とても無礼だったと思う。
 で、その方は言っていた。詩人とは、社会的に認知されているからとか、詩集を出版しているから、詩人なのではない。いつも何かを見ては感動している。いつも口の中で何かを言っている。いつも心で詩を作っている。だからこその詩人なのだ、と。
 恐らくは、もうその領域まで行けば、詩が好き嫌いとか言う次元の話ですらなくなるのだろう。詩が肉体の一部、生活の習慣となっている。詩人とはきっと、そのような人間なのだろう。
 そして、これは、小説書きにとっても似たようなものじゃないだろうか。

 確か、コナン・ドイルの話だったかな。自作の登場人物である、シャーロック・ホームズの名前の方が、自分より有名になってしまった。コナン・ドイルはそれが嫌で嫌でたまらなかったとか聞いたことがある。
 でもそれって、最高の生き方じゃないかとボクは思ってしまう。名は残らぬが、実は残す。実をつけぬ徒花を咲かすだけの人生より、ずっと素晴らしい。喩えて言うなら、百年千年の後まで残る建物を造るかのごとき行為。ひとつの家族が一生を安心して暮らすことの出来る家を造るかのごとき行為だ。
 プロもアマチュアも関係ない。目の前の作品に対して、自分が出来るベストを尽くす。小説書きにとっては、それ以外のモラルはありえない。とボクは考えている。
 あとは「極上の料理に蜂蜜をぶちまけるがごとき思想」だ。捕らぬ狸の皮算用をしている暇があるのなら、さっさと修行して、さっさと作品を書けば良いのである。

 以上のような姿勢を持つ。以上のような人間になる。
 《そこ》が、小説書きとしての《スタートライン》なのだろうね。きっと。

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追記:

 あー、正直ちょい自己嫌悪中です。『Point Of View』を作った時は、《小説を書く際に当たっての心構え》なんて言うつもりもなかった。
 技術さえ教えていれば、事足りると思っていた。技術を身に付けることによって、小説を書く腕が上がる快感を知ってしまえば、《小説を書く際に当たっての心構え》として充分だと思っていた。
 ってかさ、こんな《心構え》を語ることが、ボクにとってなぜ自己嫌悪に通じるか。こんなこと知っている人にしてみれば、言うまでもない話なんだよね。むしろボクの方が、はまさん今更なに言ってるのよ、と誰かにバカにされそうで、恐いくらいだ。

 ……でも甘かった。

 思い知りました。世界には……
 大きな口をきくだけで、努力するすべも知ろうともしない人間。
 そもそも、努力なんてコトバを知らない人間。
 上を目指すなんて、思いも寄らない人間。
 最悪なところでは、欲張りはするが、努力はしたくない人間。
 ……そんな人間が多くいて、小説書きの世界に殺到していることを。

 もちろんそんな人間も、他に素晴らしい小説書きの人と付き合っているうちに、薫陶を受けて志を持つようになる、こともあります。全員が、ではないけど。
 しかしそんなことは、現実に人間同士の付き合いをしていないと不可能です。ネットでは教えられることに限界がある。そしてボクの体はひとつしかない。誰か人に頼むわけにもいかない。ならば、各人で自得してもらわなければならない。

 だからボクが《心構え》に関して語るのは、これが最初で最後です。今回の記事を含めて、全3回。読んでわからないのなら、もう永遠に理解できません。つうかボクには、もう無理。
 あとは勝手にやってください。ボクはもう、《スタートライン》より《こちら側》にいる人間だけを相手にすることにします。
posted by はまさん at 00:28| Comment(4) | TrackBack(0) | 連載:余計なお世話(完)

2006年05月18日

余計なお世話でしょうが 2

 まず……
 こんなこと、わざわざ公の場で言うべきではないのは、わかっています。じゃあ、なぜ言うのか。ムカついたから仕返しのため、なんかじゃありません。
 ただ、今回ボクがレスとして書いた内容は、小説家を目指しはじめた人にとって、ある一定の参考になるのではないか。そう思ったので、こちらに転載させてもらいます。

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 ある日ボクは、先日お話した某掲示板を、懲りもせずに見ていました。すると、中にこのようなカキコがあったのです。そのまま引用するとマズいので、勝手に要約させてもらうと、こう言うことになるでしょうか……

「憧れている小説のレーベルのカラーを調べました。すると、《美少女萌え》の作品に嫌悪感を抱いてしまった。自分は○○萌えなのだが、こればかりは受け入れられない。だが自分は、その憧れのレーベルの出版社で生きていたい。他はイヤ。このままでは小説家になる夢が崩壊しそうです。あーあ、やっぱり出版側の方が良いかなあ」

 そのカキコを読むとボクは、瞬間湯沸かし器のごとく怒りを覚えました。怒りも度を超えると、むしろ笑ってしまうものなのですね。
 謝れ! 作家を目指している人に謝れ! 加えて、編集者をやっている人にも謝れ!

 このカキコに対するレスは、いくつか付きましたが、その内容は大別すると二種類にになりました。すなわち

   ●その1:夢を諦めないで!
   ●その2:あなたしか書けない作品を書こうよ!

の二種類です。ああ、そうですか、そうですか。皆さん優しい人ばかりですね。
 と言うわけで、ボクもレスをさせてもらいました。以下は、そのレスの転載です。

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■厳しいようでしたら申し訳ありません      はまさん

 あなたのカキコを読んでいて思ったのですが……自分の気に入らないモノは一方的に拒絶しておいて、自分にとって都合の良いモノは無条件に容認している。そのようにしか、どうやっても読めませんでした。
 それは文学者のやることではない。

 あなたの感性に合わない作品がある。それは仕方がありません。だが、合わないのなら、合わない理由を徹底的に追求する。と共に、多くの人に必要とされている事実も見て見ぬふりをしてはならない。ならば、自分には合わない作品を必要としている人が多く存在する理由も探る。

 あらゆる存在には必然性があります。ましてや人間の作り出した知的生産物に偶然性の介在する余地はありません。人々の必要性[ニーズ]があったから、その作品が生み出されたのです。どんな下賤に見える芸術作品でも、そこへ至る歴史的背景を必ず持っています。
 それを無視して、ただ単に気に入らない、駄目と言うのは短慮にも程がある。思考停止を言い訳に、努力を放棄しているようにしか見えません。

 どうやら、あなたはプロの小説家になりたいようですね。でも考えても見てください。例えば、クライアント[雇い主]が、まさにあなたの嫌う、萌え系小説の執筆を依頼してきたとしたら、どうするのでしょうか?
 別に、自己表現を理由に依頼を断るのは自由でしょう。ただそんな、ポリシーとワガママを取り違えたような理由で仕事を放棄してしまうような人間のところには、二度と原稿依頼は来ないと思います。
 即、廃業でしょう。

 クライアントのニーズ。
 ユーザー[読者層]のニーズ。
 作者自身の満足。
 納期との兼ね合い。
 コストパフォーマンス。
 これら全ての条件を満たした上で、なおかつ、高い品質[クオリティ]の《商品提供》を目指す。それが、本当のプロと言うものではないでしょうか。

 思うに……あなたは、プロの小説家になって生活をしたい訳ではないのではないでしょうか。単に《小説家》と言うコトバの響きに憧れているだけではないでしょうか。
 考えてみてください。
 例えばです。アマチュアの一読者であるうちは、他人の書いた作品をどう評価するのも自由でしょう。でも、これがプロデビューし、同業者となったらどうなるか。あなたが嫌いな作品を書いた人を目の前にして、果たして、「あんたの作品は嫌い!」と言えるでしょうか。
そんな《近所付き合い》の出来ない人間と一緒に、楽しく仕事をしたいと、みんなが思ってくれるでしょうか。
 だからボクは、あなたが、実際にプロになったらどうなるかと言う、明確なイメージを持っていないのだと、判断するわけです。

 作家になるとは、どう言うことか。
 小説と言う《商品》を生産して、売ることで金を稼いで、生活すると言うことです。
つまり、中卒でも高卒でも大卒でも、何歳になっても、プロ作家になれば、立派な社会人なわけです。
 そう考えると……こんなことを言うのは月並みだし、ボクも好きじゃない台詞なのでイヤなんですが、あえて言わせてもらいます。

 社会人としての自覚が足りない。

 ただ、この話は小説家に限った話ではありません。お仕事全般に言えることです。
 ましてや小説家なんて、多くの人にとって憧れの仕事です。今回ボクが話したことより厳しいことはあれ、甘いなんてことはありえないでしょう。

 出来るだけ常識の範囲内で語らせて貰ったつもりですが、厳しすぎたようでしたら、申し訳ありませんでした。

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 こうして、ボクを含む、質問への返答が出そろった頃。最後に本人のレスが返ってきました。その内容は、要約するとこうなります。

「自分が書きたいものを書きます! でも、書きたいものだけでは駄目なのも事実なので、バランスを取ります」

 ……何でしょう、このやるせない気持ち。砂糖と間違えて塩を入れてしまったコーヒーを飲んでしまったかのような。いや違うな、もっとビミョーな気持ちだ。そうですね。梅干しを食べようと思って、間違えて『小梅ちゃん』を食べてしまったかのような気分です。
 ボクの意見は軽いスルー、ですか。どうやらボクの伝えたかった論旨は、伝えられなかったようです。ボクもまだまだですね。

 ちなみにボクは、この方がプロの小説家になれる可能性は、限りなく低いと考えています。なぜなら、この方に面白い作品が書けるとは、到底思えないから。
 ではなぜ、この人には面白い作品が書けるはずないと、言い切れるのか。答えは簡単。この方には、自分しか見えていないからです。
 特別なコネも才能もあるわけでなく。実は小説家に対する情熱も、それ程ではなく。ただ単に、自分が夢を見ていたいだけ。他人(読者)のことなんて、考えられていない。
 これで、新人賞と言う競争を、作家と言う実力主義世界を、勝ち抜いて行ける気が、ボクには全くしません。

 小説の執筆とは、知的な作業です。ですから肉体的な行為と違い、生来の才能が介在する余地は、小説の場合かなり低くなっています。ですから《面白い小説を書く才能》なんて持っている人は、ごくごく稀にしか存在しません。
 ただし、小説に関する才能と言う意味で、これは確実に存在し大きな影響を与えている、と言うものがあります。それは《面白くない小説を書く才能》です。
 小説修行なんてものは、この《面白くない小説を書く才能》との戦いと言っても良いでしょう。

 最初から《面白い作品》を書ける人なんて、まずいません。いるのは、自分の書いている作品が面白くないことに、気が付いてすらいない人だけです。
posted by はまさん at 00:13| Comment(10) | TrackBack(0) | 連載:余計なお世話(完)

2006年05月11日

余計なお世話でしょうが

この記事はフィクションです。実在するサイトとは関係ありません。
たぶん。

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 とある小説書きさんサイトに、相談掲示板と言うものがありまして。そこを覗いていた時の話です。ボクは思わず頭を抱えてしまいました。そこには、似たような質問ばかり。しかも、到底役に立つとは思えないような質の質問ばかりが書き込まれていたのです。
 ファンタジーでこう言うことをしても良いのでしょうかとか。あれを登場させても良いのでしょうかとか。何か問題はないでしょうかとか。ごく限られた範囲でしか通用しない……具体的には、質問者がこれから書こうとしている作品に関する質問ばかりだったわけです。

 ズバリ引用してしまうとマズいですから、仮にボクが《それっぽい》内容をでっち上げるとですね、例えば……
 ファンタジーに日本刀を出してはいけないでしょうか、とか。
 作品内に実際に存在する団体の実名を出してはマズいでしょうか、とか。
 主人公に恋しているヒロインが沢山いるような作品を書いてはいけないでしょうか、とか。
 自分の考えている魔法の設定にこれこれこう言うものがあるのですが、この世界にナンタラみたいな兵器を登場させると問題は起こらないでしょうか、とか……。

       orz

 オーケー、落ち着くんだ、はまさん。まずは深呼吸だ。
(ヒッヒッフー、ヒッヒッフー)
 どうせ他人様のサイトじゃないか。それに「小説を書くことに関する相談」をしているのには間違いないじゃないか。
 うん、確かにそうだね。そうだ。サイトおよび掲示板の意図としては、何ら間違った使われ方はしていない。
 だがね。
 創作者としては大いに間違っていると思うんだ。

 ある時、抜群のアイデアを思いついたとする。じゃあ、サッサと作品化すれば良いんだよね。それを何でイチイチ質問して皆の意見を求めようとするのか。「このアイデアはアリかナシか」じゃないだろう。面白ければ、全てアリに決まっている。小説とてエンタテイメント。判断基準は、面白いか、つまらないか。それだけだ。
 で、思いついたアイデアが面白いから、《アリ》にしたい。小説化したい。そのための創意工夫であり、技術だ。世界考証がどうたらなんて、そのための一手段に過ぎない。

 ボクにはわかる。
 恐らくは「不安だから相談している」わけじゃあないんだろうね。自分の話をしたいだけなんだよ、きっと。でも作品を完成まで書き上げるのは面倒臭い。だから、書く前に相談する。
 本当に面白いアイデアを思いついたのなら、面白い作品が書けているのなら、自分でわかるものだ。そして、書いている作品の話を、誰にもしようと言う気にはならないはず。だって、「これはビックリ箱で御座います」と、自分で丁寧に教えてからプレゼントするようなものだからね。
 書いた小説を読者に見せる過程までを含めての、《作品》だ。でなければ、単なる自己顕示欲の強い露出狂になってしまう。

 本当に面白いアイデア思いついたとしたら。他人にアイデアの可否、アリ・ナシを訊いたりしないはず。アイデアの活かし方だけを考えるはずだ。「どうやれば良い?」「どうやれば面白くなる?」ってね。
 そして今度は、その「アイデアの活かし方」=「技術」を自分なりに思いつくために、発想のタガを外さなくてはならない。その意味でも、他人の意見に流されていちゃいけない。自由意志の決定権まで他人に任せては、創作をやっている意味がない。発想なんて、「他人が出来るだけ思いつかないこと」を見いだすのが目的であるのは、言うまでもないことだ。
 ましてや、多くの人の意見を取り入れて作った作品なんて、平凡な作品になるに決まっているじゃないか。

 いや確かに、わからないことがあるのなら、他人のアドバイスを素直に求めるのは素晴らしいことだ。
 ただし、能力以上の技術を教えられたって使いこなせるわけがない。生兵法で知識を得たって、役に立つわけがない。
 じゃあなぜ他人に相談するのかって、それは、自分の考えを整理したいから、他人に自分の意見を聞いて貰うのだ。他人のアドバイスで、10持っているのが20になることはない。絶対にない。人間、使いこなせるモノは、努力を伴って得たモノだけだ。ただ、他人のアドバイスによって、10持っていたのに8しか使いこなせなかったものが、全部を使えるようになることは、あるかもしれない。
 しょせん他人の意見なんて、創作の場では参考にしかならない。意思決定のための、選択肢のひとつ。その程度だ。

 と言うかですね。
 本来は創作者本人が決定すべき事項まで、他人に依存して意思決定意をしている様を見てて……ちょっと呆れてしまったんですね。
 これが、チーム単位で知恵をシェアしながら、ひとつの作品を企画している、とかなら問題はないのですが。
 仮にも小説を書いてますって人間(たち)が《創意工夫》の、《創意》も《工夫》も自ら放棄している、って。それで一体、何の小説を書くと言うのか。そもそも、そんな小説を書いて何の意味があると言うのか。
 本当に理解不能です。

 君たちが他人に丸投げしている、その行為……そこってさ、小説を書く際において、一番面白いプロセスなんだぜ?



追記:
 ちょっとだけ、わかった。ボクが《助ける》べきは、《歩み続ける人間》だ。内にモヤモヤとした思いを抱え込んでいながら、その思いを言葉に出来なくて、困っている人たちだ。決して、その場から歩もうともしない理由を誰かに押しつけているようなヤツらじゃあない。


追記2:
 ちなみに本日のブログは、暗にボクへの質問は受け付けないとか、そんな意図で書いてるわけではありません。今のところ、ボクに来ている質問(の大半)は、とても前向きなものばかりですし。
 ただ、ちょっと、創作者の目で見た場合、件の掲示板が酷かったと言うだけの話です。


追記3:
posted by はまさん at 00:15| Comment(2) | TrackBack(0) | 連載:余計なお世話(完)