2013年03月16日

短編回路についての近況報告

 最近、身近な書き手仲間の中で《短編回路》というものが流行っています。

 そもそも短編が書ける能力というのは、半ば生まれつきにも似たところがあります。短編といっても、単に短い小説のことではありません。例えるなら星新一さんのような小説を書ける能力。つまりは、どのようなモチーフからも、どんでん返しといった良い感じのオチを思いつく。短編とは発想力です。理論ではどうしようもない。……と思っていた時期がボクにもありました。
 それが一昨年、ボクはいきなり短編を書けるようになったのです。もっと具体的には、就寝中に良い感じの短編が書けるようになる夢を見て、起床したら、出来るようになっていました。
 この、どんなモチーフからも良い感じのオチのある短編が書けるようになる脳神経の回路を、仮に《短編回路》と呼ぶことにしましょう。

 この後、ボクはその《短編回路》で得た感覚を技法化、《対称性の技法》と名付けました。ボクはその《対称性の技法》を誰にも公開する気はありません。墓まで持って行く。
 ならば、短編が書けない他の人は諦めるしかないのか。ボクは頼まれ、何人かの短編練習に付き合っていました。どうせ無理だろうと思いながら。
 ところが、あら不思議。どうやら《短編回路》は指導により、感染するようです。何人もが良い感じの短編を書けるようになってきたではないですか。

 《短編回路》を得たことにより、どんな変化が得られたか。具体的な効果を挙げますと……。
 まず、お題を見た、次の瞬間にはオチが浮かびます。お題は、どんな無茶振りでも関係ありません。しかもオチは良い感じに、どんでん返っていたりする。所要時間は慣れると、一分もかからない。
 最短で小説が上達する方法とは、ともかく書くことだとは言いますが。すると《短編回路》の持ち主は、質・量ともにオリジナルの小説を山ほど書けるようになる、ということになります。
 また、無茶振りのお題でもプロット化が可能だということは。仮にあなたがプロの小説家になった時。クライアントから企画の修正を頼まれても、パッと変更に対応できるようになるということでもあります。
 例えばボクならば。先に元ネタを用意しておいて、そこから一日に五十から百本のプロットを作成することができます。もちろん、全て良い感じのオチ。これが普通ならば、どんでん返しなんて作れるのは一年中、悩みに悩み抜いて、やっと一本できたら良い方ではないでしょうか。

 この《短編回路》。感覚的なものであって、理屈では説明できません。でも実在するのは確かです。
 恐らくはプロットノックにおける《ライン》に近いものかもしれません。いえ、むしろ《ライン》の上位互換スキルである可能性もあります。

 身に付けるに当たって、現在までに分かっていることも報告しておきましょう。まずは練習法ですが、いくつかあります。
 その1。名言・ことわざ・叙事熟語をお題に、短編を作る。
 その2。タロットカードを二枚ひき、そこからお題を考えて、短編化する。
 その3。慣れれば、どのような言葉をお題にしても短編化できるようになります。それこそ、目についた言葉すべて。

 次に実際にどうやって短編化するか。
 その前に、リラックスしましょう。すぐに結果を出そうとか、何かに役立てようとか、肩肘張らない。失敗を恐れない。《短編回路》の正体とは、無意識と顕在意識とのバイパスです。功利意識のような顕在意識が前面に出ると、無意識が隠れてしまいます。
 では始めましょう。まずは起点となるお題が用意されています。そうしたら脳の《短編回路》を働かせて、良い感じのオチを考えてください。あとは起点とオチを結びつけることで、はい序破急のできあがり。つまりは、オチがつけられるか、どうかの問題になるわけです。
 ただしこの時、起点からオチをブレさせない。オチで横槍を入れない。横槍の良くあるパターンが「全て嘘でしたー!」とか「第三者がいきなり登場して、問題を解決しちゃいました」というものです。多いんですよ、これ。
 最初は、twitterの140字以内に短くまとめられるよう目指すのも悪くないかもしれません。

 そして、《短編回路》が覚醒するには、どうやら既に回路を所有した者の指導が必要となるようです。その指導法についても、少し分かったことを。
 基本は、マンツーマンの細やかで我慢強い指導が必要となってきます。ですが注意しなければならないのは、短編は本来、できなくて普通だということ。短気を起こして、くれぐれも「このくらい、フツーにできるだろ!」と癇癪を起こさないように。修行者が真面目であればあるほど、苦労することになるでしょうから。
 指導者は修行者の作ったオチを、ひとつひとつ添削してあげましょう。とはいっても、短編は発想の問題。正しい解答などありえません。ですが、違和感を覚えるオチに対しては、指導者である自分ならどのようなオチにするか。ベターな着地点を示すことで、修行者に比較させるのです。

 武術では自分の姿勢が正しく、正中線が定まっていれば、相手のブレを見抜けるといいます。《短編回路》の指導というのも恐らくは、指導者の正中線が定まっているからこそ、相手のブレを見抜ける。そういうことなのでしょう。ボクの場合は……技法化までしちゃってますしねー。
 この「回路の伝授」。昔の文豪に対する、書生制度に似ている気がします。師匠と生活
を共にすることで、思想そのものを学ぶという。

 それでは、ボクとかに弟子入りすれば、誰でも《短編回路》を入手できるのか。まだまだ、詳細は不明なので断言できませんが。恐らくは半々で、時間をかければ割と誰でも身に付けられるのでは、と予想しています。
 ただし!
 《短編回路》の修行はマンツーマンで行われます。大勢を相手に伝授するのは無理。ボクも既に、修行をつきあってあげている相手がいますし。そもそもボクは、小説書きに先輩後輩あれど師弟なし、というわけで弟子は取らない主義ですから。
 うかつに技術を教えて、仇で返されたこともありますしね。懲りた。いわく、技とは仁に厚い者を選んで伝えよ、という教えがあるそうです。そんな、人格まで理解するほど深い付き合いを持とうと思ったら、とてもじゃないけど、大勢の弟子なんて持てやしない。
 なのでボクは指導しません。絶対。あきらめてください。

 ただ、これによって短編は生まれ持った才能によるものではない。努力によって成せるのだと、ボクは胸を張って主張できるようになりました。そもそもボク自身は誰にも教わらない、独力による能力獲得ですし。
 残念ながらボクは手助けできませんが。それでも、あなたが絶対に《短編回路》を手に入れたいというのならば……まずはプロットノックと描写練習とアイデアノックとタイムテーブル分析から始めてください。各百本。それが《短編回路》獲得の、最低必要条件となります。
 その後に自分で短編にチャレンジ。五百も失敗してから……ならばボクもtwitterあたりで相談に乗るかもしれませんよ?

 以上……という、そういうのが、あるらしいよ報告でした。
posted by はまさん at 00:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 文学的(持論)

2012年07月17日

流動性小説作法論

 まずは小説書きを目指す人たちへ、よっつの教訓を提言しよう。形から入ったので構わない。以下を、四の五の言わずに守って欲しい。
  結果のみを早急に求めるな。
  自分への、読者の評価を否定するな。
  他の書き手を見下すな。
  取らぬ狸の皮算用で自分を語るな。

 まず「結果のみを早急に求めるな」とはどういうことか説明すると。
 例えば、充分な実力もないのに「練習とか面倒臭いので、やってる暇がない」と修行はしない。だが新人賞に投稿すれば、もしかして入選するかもしれない。そうやってリスクもコストもなしに、リターンのみを求めることだ。

 「自分への、読者の評価を否定するな」とはどういうことか。
 自信作を書いたのに、実際に読んでもらうと、散々な評価しかもらえなかった。そこで「どいつもこいつも、俺を理解してない。俺の方が面白いはずなのに」と読者に責任転嫁するのだ。
 あと、小説の新人賞に投稿したのに、自分は落選してしまった。そこで受賞作を読んでみて「この程度なら俺の方が上だ」と思い込むのも、コレになる。

 次に「読者を否定するな」というのに近いのが「他の書き手を見下すな」という教訓だ。
 一定以上の修練を積んだ書き手ともなれば、それぞれ独自の作風を持つ。簡単に真似できるものではない。というのに自分だけを基準に「アイツらは○○ができないからクズ」と決めつけてはいけない。学ぶべき点は多くあるはずなのだ。

 そして書き手の価値とは、書き上げてから、読んでもらってから決まるものだ。だから「取らぬ狸の皮算用で自分を語るな」ということになる。
 「明日から本気出す」とか「俺なら書く前からヨユー」と自信満々に思うのは良い。だが、実際に書き出すまで、どうなるのか分からないのが作品というのもだ。

 以上よっつ。どうしてこんな小言のような教訓が必要なのか。詳しく説明しよう。



 言葉の意味とは、前後の文脈[コンテクスト]や、受け取る読者によって変わる。必ずしも制作者の意図通りに動いてくれない。それはまるで、人の介入を拒否する《自然》のように振る舞う。
 自然とは例えば河の流れを思い浮かべてくれればイメージしやすいだろう。常に流れ、また勝手に澱み、一定の決まった形を持たない。いわば「誰かの思い通りにならない」という《流動性》こそが、自然の持つ本来の特性といえるだろう。
 となると、こうも考えられないだろうか。コンテクストとは、まるで《流動性》を持った自然のように振る舞う。いや、コンテクストとは自然なのだと。

 「山の天気は変わりやすい」という。天気予報を見てから登山をしても、事故を起こす可能性は大いにある。だからといって地図も予報も見ないで登山に挑むとしたら、それは単なるアホだろう。
 予報を見るか、見ないか。前者と後者では、同じ事故を起こしたとしても、そこには大きな差があるはずだ。

 優れた登山家ほど、山の天気は変わりやすいのだと知っている。ゆえに優れた登山家ほど山を恐れる。だがその恐怖に立ち向かう、勇気を持っているからこそ登山家は尊敬されるのだ。
 それを「アイツでも出来たのなら、俺でもイケる」というのは、まさしく素人考えだ。仮に今回は無事に帰還できたとしても、冗長したままなら、いつか必ず命を落とすことになるだろう。

 コンテクストが自然だというのならば。読者と、今から書こうとする作品こそが、「思い通りにならない」自然になるだろう。
 もしも読者や、作品や、他の書き手さんを舐めているのならば。それは山の天気を舐めているのと変わらない。登山家としては素人だということになる。



 ならば、どのみち事故を起こす可能性があるとしても、素人と《優れた登山家》との間にどんな違いがあるのか。そのためには《職人》について考えてみると良い。
 職人とは単に、物作りを行う人のことではない。自然と共に在ることにより、経験知を蓄積。流動的な自然の中から、結果という固定化されたモノを取り出す技術を持った人たちなのだ。
 例えば、広大な山から鉱石を掘り出す。鉱石から金属を取り出す。氾濫しないよう、河の流れを導く。畑に種を蒔いて、収穫を得る。逆巻く海を渡り、魚を捕る。
 古来日本では武士だって、戦闘職能集団という職人だ。戦争とは人を相手にした、まさに流動的に荒ぶる自然である。また治水技術を持った武士もいたというから、まさに武士とは職人だったといえよう。
 そうやって、大地から恵みを取り出す。結果のあやふやな自然に向き合うため、職人がいるのだ。

 だから職人は、流動性の中から恵みを取り出すすべを知ると共に、自然を恐れる知恵も持っていた。しかし職人の中に冗長した者がいたとして。恵みを得る技術のみが過剰化したらどうなるだろう。
 《手っ取り早く結果だけを得る技術》を推し進めるとどうなるか。《過剰な技術》は、自然物を家畜化させることとなる。例えば野生のイノシシを飼い続けることで、品種改良してブタを作ったように。
 家畜とは、自然から流動性のダイナミズムを剥奪し、人にとって都合の良い存在に作り替えた存在なのだ。



 もしも《手っ取り早く面白い小説の書ける技術》などというものがあったとしよう。だがそれは、物語を家畜化したということに他ならない。そして物語の家畜化とは、人間心理の家畜化をも意味する。
 《手っ取り早く面白い小説の書ける技術》とはつまり、他者を自分に都合の良い思い通りに奴隷として操る技術なのである。でもコレってさあ、人間に対する凄い侮辱だよね?
 武士として一対一の果たし合いを受けておいて。大勢で夜討ちをかけて勝ちました。剣ではなく、マシンガンを持ち込んで殺しました。そんな勝利が嬉しいのかと聞きたい。

 こうした《人を操る技術》を意図的かつ、大々的に使い出したのが、まずはナチスだった。ナチスで育ったプロパガンダ技術は、やがてナチスを参考に軍を再編成していたアメリカに渡り、ハリウッドで大いに利用された。
 そして戦後日本。GHQから共産圏に対する思想的橋頭堡としての役割を求められ、戦中・大本営が行っていた情報統制を解体させずにマスコミ網を構築。一社の広告代理店のみがテレビ新聞を支配するという体制を整える。実は今でも日本って、軍事独裁政権並みの情報統制システムを持った国ですよ?
 こうした、国家が国民の思想を恣意的に操る政体を《メディア帝国主義》といいます。すげえ国民をバカにしたやり方ですよね。



 例えばね。ムカつくことがありました。矢先に、たまたま剣や銃を手に入れました。あなたは自由に人を殺せます。しかも罰せられることがないというオマケつき。あなたは人を殺しますか? 他人を自由に支配できるとは、こういうことです。
 もちろんボクも詐術の類は知っています。小説技法をやっていると、どうしても通ってしまう道なんですね。だが自分の都合では、使わないようにしている。フェアではない。相手を見下した行為だから。
 相手を見下す。それでは、山の天気を舐めた、のぼせ上がった素人と同じになってしまいます。技術によって多少は自然を操れるようになったのかもしれない。だが自然の持つ流動性は変わらない。山の天気を舐めた者は、いつか必ず事故を起こすものです。



 いや違う。どうせ職人だって失敗するなら一緒だろ。一緒なら自分は甘い汁だけ吸っていたい。そう考える人もいるだろう。
 だが同じ失敗でも、ベテラン登山家と、素人とでは、やっていることの意味が違ってくるように。畏怖と敬意の有無で、失敗の意義は変わる。ひとりの職人が撃沈したとしても、経験知は後世に受け継がれる。以後、同じ失敗が繰り返されることはない。

 例えばボクが素晴らしい作品、凄い新技法を手にしたとしよう。でもそれは個人の能力によるものではない。先人たちの努力、という歴史が積み重なった結果。たまたま《結束点》として選ばれたというだけの話だ。
 その意味で技術とは、天からの授かり物だとも考えられる。例えば算額奉納のように。
 江戸時代。数学の問題や解答が発見されると、絵馬に記して神社に奉納するという《算額奉納》という風習があった。数学の問題とは、誰が解いても同じになる。ゆえに数学は神仏からの授かりものだ。だから神社に奉納したのである。ところが算額が奉納された神社は、やがて数学の問題を発表する場となった。そして数学者だけでなく、一般の数学愛好者も大いに算額を奉納するようになったのである。



 もしもこれが「俺だけが」「俺の功績だ」と、得た結果を個人が独占したらどうなるだろう。稚魚を返さず、乱獲する漁のようなものだ。業界はやがて枯れるのみ。巡り巡って自分の首をも絞めるのは確実だ。
 縄文時代の貝塚からは貝殻だけでなく、食べた魚の骨も出てくる。この骨というのが、実に丁寧に残されているという。というのも、どうやら縄文人は、骨を塚に返せば、やがて魚は再び肉という衣をまとって、村へ富を与えに戻ってきてくれると考えていたらしい。だから貝塚からは人骨も見つかる。魚のように、祖霊が戻ってくると考えたのだろう。貝塚とは単なるゴミ捨て場ではないのだ。
 自分とは通過点に過ぎない。「俺が俺が」という他者へ何も還元しないエゴイズムは、むしろ全ての者にとって邪魔にしかならないのだ。

 南洋では今でも鯨捕りが、小舟に乗って一対一で行われるという。鯨を殺す者は、自分も殺される覚悟が必要だというわけだ。だから海の民は世界的に、墓を持たない場合が多い。海で死ねば、骨も残らないからだ。
 そしてボクも「はま」の名字を受け継ぐ辺りから分かるように。実は海の民の末裔だったりする。だからボクは良き狩人であり漁師であり山師であり職人でいたい。
 結果だけ求めても、映画『ソイレントグリーン』の世界に行き着くだけだ。ボクは良き狩人でいたい。培養肉製造工場の管理人なんて、御免被る。



 もちろん《手っ取り早い技術》が存在しないとはいわない。だが知っていても、絶対に教えない。ボクは狩人であり、職人として誇りを持っていたいから。むやみに世間を混乱させるような技術は、墓まで持って行く。
 だけど新技術なんてモノは、第二次世界大戦中における原爆の開発レースのようなものでね。時間の問題で、いつか誰かが同じ技術を開発してしまうもの。ちなみに旧日本軍も満州においてプルトニウムの採掘を進めていたそうですから。
 もしボクが世界を変えるような技術を開発したが、危険ゆえに黙っていたとしても。他の誰かが同じ技術を開発して、うかつにも公開してしまうかもしれない。でもそれは、その人の問題だ。ボクの誇りとは関係ない。

 結局のところ、料理に使う包丁も、持つ者によって殺人の武器と化すように。技術をどう使うかは、使用者の人格次第というわけだ。なので《奥義》を伝承する際は特に、個人の人格を見定めなければ危険になる。
 昔話でだって、試練を越えて《死からの再生》を果たした者にしか、宝物は与えられない。昔の人は技術の危険性を、そして人は冗長するものだということを良く理解していたのだ。



 ならば小説の試練とは、どのようなものかということになるが。職人のやるべきことなんて、昔から決まっている。職人は手で覚える。だから職人に必要なのは堪え性。それは《手っ取り早さ》とは逆の考え方だ。
 今は工場も、行程を定数化することで自動化が進んでいる。だが数値を入力するのは、やはり人間である。結果、自動化を進めたら、むしろ失敗が多くなったりと。単純な話ではない。
 小説を書くマシンの可能性というのも、昔から語られてきた。だがそんなマシンが完成するには、人間の脳と同等の能力が必要になるだろう。そんなコンピューターは未だに開発されていないし、開発されたとしても民間実用化されるのはいつの話か。
 つまり小説書きを定数化するのは、しばらく無理。求めるだけ時間の無駄というものだろう。

 というわけでボクは「面白い小説を書く方法を教えてくれ」と請われても、古典に則って、わざと困難な道しか指し示さないことにしている。
 ボクの技とは、寄り道や立ち止まったりすることをなくす。だが、どのみち苦労は避けられない。いわば正しく苦労するためのものだ。だから例えばボクは最近《対称性の技法》などという便利な技法を発見したが。この技法も前提として、いくつかの修行を経ていないと使いこなせない仕様になっています。



 すると、「なーんだつまらない。苦労したくないから技術を知りたかったのに」という人が必ず現れる。そういう人は去ってもらって構わない。または、「じゃあ自分は苦労せずに済む、今までにない全く新しい道を歩もう」という人も現れる。だが断言しても良い。苦労せずに済む《近道》なんて、ないよ?
 過去、恐らくは何千年と。面白い作品を書けるのは天才のみの特権であった。ワナビ(小説家志望者)は苦悩すれども、面白い作品を書けない。天才の陰には、挫折したワナビたちの屍山血河が積み重なってきた。
 だが凡才のワナビも、ただ苦悩するだけではない。大勢が生涯をかけて技術を残してきた。その執念の結果として、今があるのだ。今さら、ひとりがゼロから始めたところで、そりゃー出来ることなど限られているに決まっている。

 天才の登場とは全くの偶然。いわば天才の存在も本質的には、流動的な自然に近くなる。そして天才しか面白い作品が書けないとするならば、凡人はどうすれば良いのか。そのために職人がいるのであり、技術がある。
 天才という自然から、少しだけお恵みを頂く。才能という形ない自然から、技術という形あるものを取り出す。凡人たちを襲う「書けない」という災いを、避けるために。「書けない」という絶望を越えるために、技術はある。
 ただし小説というお恵みを頂いた感謝として、書き手は代わりに供物を捧げる。それは技術であるかもしれない、傑作であるかもしれない、優れた後進の育成であるかもしれない。そうして老いた自然はシステム更新され、再び新たな命を取り戻すのだ。
 というわけでボクは自分に生きる張り合いを与えてくれた、小説さんに感謝している。つねづね恩を返したいと思っている。たとえ自分が《小説さん》から愛されることがなくとも。
 だけど、それ以前の問題で「俺が俺が」のクレクレ厨なんて、誰も愛してくれるわけがない。自分が愛されたいのなら、まず誰かを愛して与えるところから始めろよと。その上で好きな相手が決して自分を愛してくれないと分かっていても、だったら他の相手と幸福になってくれることを祈るくらいの度量が欲しいところだ。



 ちなみに「恩を返す」とは《対称性の思考》という考え方のひとつになる。人類がホモ・サピエンスに進化した際、脳が肥大化したため、現実にはない妄想を抱くようになった。この妄想の仕方こそが《対称性の思考》ということになる。だが《対称性の思考》こそが源泉となり、ホモ・サピエンスは詩や神話を作り始めた。
 《対称性》とは例えば、恩を受けたら返す。ファンタジーでお馴染みの「行きて帰る」。また前述した鯨捕りの、自分が殺される覚悟というのも対称性の思考になる。それだけではない。山の天気も、算額奉納も、貝塚の骨も、全ては対称性の延長線上にある。
 実は冒頭で挙げさせてもらった教訓とは、そうした対称性を自分の中に育むトレーニングを兼ねているのだ。

 対して「自分だけ」「損はしないで得だけしたい」とは、非対称の思考ということになる。
 前述した例えならば、武士が果たし合いにおいて、大勢で夜討ちをかけて勝ちました。剣ではなく、マシンガンを持ち込んで殺しました。自分の都合で他人を操り、奴隷扱いしました。自分が得するためなら、相手は不幸になって構わない。アメリカのグローバリゼーションなんて、非対称の好例だ。
 そして非対称の思考とは、人から物語を奪ってゆく。いわばアンチ物語の存在といえよう。だから《手っ取り早い技術》を求めれば求めるほど、本当のところ人は物語の源泉から逆に離れてしまっているのだ。

 けど……手っ取り早いのを求めていたのに、とか。練習ばかりは飽きた、とか。あげくに、技術なんて役に立たないんだ、とか。古典を無視して新しい技法を作る……なんて「分かってない」人がまた現れたりするんだろうなあ。
 ああ、うんざりする。堪え性がなければ、どのみち良い職人にもなれるはずがないんだけどなあ。
 というわけでカネが欲しいとか、承認欲求を満たしたいだけならば。宝くじとか、株とか、貯金とか、就職とか。もっと確実で、性分に合った方法があると思いますので。無理に小説書きを目指す必要はないんじゃないかなあ、と思いますヨ?
posted by はまさん at 00:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 文学的(持論)

2010年05月31日

あなたは次の十年も書き続けるだろうか?

 ちょっと色々、考えることがありました。

 もしもの話。あなたは絶対、プロの小説家になりたいと強く強く願っているとしよう。ところがある日のこと、目の前に神様が現れてこう予言したとする。あなたはこの先、最低でも十年は必死で努力を積まないとプロになれることはありません。これは運命であり不可避ですよ、と。

 こんな場合、あなたならどうするだろうか?
 選択肢はいくつか考えられる。
【選択肢例】
■その1:神様の言葉を無視する。自暴自棄になって無駄な戦いを繰り返す。そして結局、何の実も得られない。
■その2:どうせ十年は努力をしても無駄なのだから、もう夢は諦める。小説のことなんて忘れてしまう。
■その3:無理にメジャーリーガーを目指す必要はない。草野球のエースでも充分にゲームは楽しめるはず。目標をプロから低めに再調整する。実際、書き続けてさえいれば、何らかの評価を得られることだって、ネットでは珍しくない話だ。
■その4:十年の努力で実を結べるのなら軽いもの。たった今すぐからでも、その「次の十年への積み重ね」を開始する。ただし代わりに、大文豪を目指してやろう。

 ちなみにボクが選ぶ答えはどのようなものかというと……。ともかくボクは書けない時期というのが長く続いたのでね。書けるだけ幸せです。実を得る得ないという話ではない。「書くこと」自体から、もう色んなものを貰っている。続ける続けないはナンセンス。関係ない。どのみち「次の十年の積み重ね」ごとき、ボクならやるだろうし。果てに何かを貰えるのならば、面白そうだから貰っておくだろう。
 だから訊くまでもない。次の十年への積み重ね」など、余計な神様が現れる前から、とっくの昔にやっている。

 さてあなたは書き手として、どんな「次の十年」を選ぶだろうか?
posted by はまさん at 23:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 文学的(持論)

2010年05月23日

小説技術メモ/「やってもうた」の恐怖

嫌な話をしよう。

自分では傑作だと信じた作品を、いざ「どや?」と読ませたら
すんごい滑っていた。
そもそも初期コンセプトからズレていて、完成まで気が付かなかった。
そんな経験をしたことはないだろうか?

作品には時折、作り手自身では絶対に気付けない欠点が生じる。
そうした地雷的な作品のことをボクは
《やってもうた》と呼んでいる。

もちろん《やってもうた》は訓練により、かなり減らせる。
特に「人から読まれる」という経験が大切だ。
そうして減らせはするのだが……無くすことはできない。

ゆえに《やってもうた》は絶対不可避・絶対命中。
文豪と呼ばれる人であっても、《やってもうた》にだけは勝てない。
対策はひとつだけ。

 気 に す ん な !

失敗すると分かって突撃するのはアホだけど。
いつまでも過去の失敗を悔いていても何の解決にもならない、
次回作を書け、次回作を、ってことだね。

だからあなたも失敗作を書いてしまったら、
もちろん自分の中では反省会しとかなきゃいけないだろうけど。
別に失敗しようと思って書いたんじゃないんだしサー。
そのことを他人から責められたとしても、
「反省してますぅ」て外面をしておいて、無視しときゃ良いんだよ。

 気 に す ん な !
posted by はまさん at 23:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 文学的(持論)

2010年05月17日

「結果」を得られない書き手になるためのフラグ

 たびたび「どうやったらラノベ作家になれますか?」的な内容の相談を受けることがあります。本当なら、もうこの時点でツッコミどころ満載なのですが。面倒なのでツッコミは、あえて放置してー。そんな時、ボクはこのようなアドバイスを送ることにしています。
 二次創作なり、オリジナル長編をサイトで発表するなり、同人イベントに参加するなり。遊びで好きな作品をたくさん書いてみようよ、と。

 するとここで相手の反応に、二種類の分岐が生じます。ひとつは、なるほどと素直に聞き入れるタイプ。こちらは別に問題ないんですけどねー。放っておいてもサクサクと成長して、本人も気が付かないうちにプロ顔負けの腕前になっていたりします。
 肝心なのは、もう片方。「せっかくのアドバイスですけど、自分は一刻も早くラノベ作家になるという結果を出さなくてはならないので、二次創作などの余計な作品なんて書いている暇はありませんよ〜(笑)」と人にアドバイスを求めておいて、聞き入れようとしてくれないタイプです。

 ちなみに後者の方が圧倒的に多いのですけど。後者にはひとつの特徴があります。《それ》がなぜなのかは、理屈ではわかりません。ただ経験則として、もう言い切っても構わないでしょう。
 「余計な作品」を書きたがらない小説家志望の大半は、途中で小説書きを辞めてしまう傾向にあるようです。

 これって……なぜでしょうね?
 すぐに結果を出そうとして余裕がないので、心が折れやすいのかな? どのみち因果律として説明することはできません。でも「余計な作品」を嫌がる人というのは、本っっっ当に小説書きを辞めてしまう。
 理由はいろいろ。面倒臭くなったとか。飽きたとか。他に面白いことを見つけたとか。小説に価値を見いだせなくなったとか。
 まず大半は辞める。

 たとえ辞めなかったとしても。
 小説書きをを辞めないで、ずっとプロを目指してはいるのだが。そもそも腕が追いついていないのに、結果だけを早急に求めて「余計な作品」を書こうとしないものだから。いつまでも練習不足のまま。
 ……なんてことになったりします。案外とね、一定以上の実力を持っている人というのは、「余計な作品」を自ら書いているものなんですよ。

 どのみち結果を出す人、小説書きを長く続けている人というのは、「余計な作品」を書いているものです。さもなくば逆に、「余計」を書いてしまうほど、創作意欲が溢れている人でないと、書き手というのは続けられないものなのかもしれません。
 ま、結果を求めすぎた果てが、結果を出せずに終わるというのも皮肉なモンだと思いますよ。みんな、もっと書くことを楽しめば良いのになあ。

 どのみち「プロを目指すため余計な小説を書きたくない」という人がいたら。それは失敗フラグだと思って良いですよー。
 そりゃもう、最終決戦前夜に「俺……この戦いが終わったら故郷に残してきた彼女と結婚するんだ」と仲間に告白する一般兵みたいなもんです。ええ。
posted by はまさん at 23:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 文学的(持論)