2010年05月09日

努力と結果の相関性についてメモ

 ある方とtwitterで、こんなやりとりをしました。
「知名度と実力上げたいですが」
「実力は努力次第。名声は運」
「運ですかーwそれを信じて努力し続けてれば突然両方手に入るものなのかも(゜∀゜)?」

 これについて、ちょっと補足をさせてもらいます。
 まず、《実力》というものは、成功を得る確率を上げるためのものだと、ボクは思っている。

 例えば、六面体サイコロを振って、一回で必ず「1」を出さなければならないとしよう。
 難しいですね。ほとんどの人は成功を得ることなく、失敗に終わってしまうことだろう。

 これが、何度もサイコロを振れるとしたらどうか。成功となる出目が「1」以外にも、「2も3も4も成功扱いでOKだよ」と、もっとあるとしたらどうか。
 成功する確率は高くなるだろう。この「成功する確率を高めるための手段」こそが、「努力によって得られる実力」だとボクは考えている。

 実力がつけば、成功する確率は高くなる。そして実力とは努力によってしか、身につかないものである。だから努力は成功する確率を高めてくれる。

 しかし、成功する確率というのは、高めることが出来るだけだ。確実な成功というものは、どこにもない。
 サイコロを何度振っても、たまたま、成功となる出目を避けるように失敗続きになることもある。いっそのこと、サイコロを振ろうとしたら、いきなり隕石が落ちてきて自分に直撃、死んでしまうことだってあるだろう。

 だから実力と名声とは、ワンセットではない。実力は自らの意志で身に付けることはできる。ただし名声というのは自然災害みたいなもので、自分ひとりの意志ではどうにもならないものだ。求めたって、そうそう得られるものではない。
 だが確実にいえることがある。実力なしに名声を得ることは、絶対にない。そして実力は努力によってしか身につかない。ゆえに、努力なしに名声を得ることは、絶対にない。

 なぜ、そう断言できるのか?
 成功や名声というものは、他人から「評価」という形で与えられるものだからだ。ゆえに何かの間違いで、一作だけ評価を得たとしても、以降の二作目三作目で認められない限り、「成功」にはならず名声は得られない。
 成功や名声とは結局、自分を認めてくれる人との、幸運な出会いによってもたらされるものなのだ。

 なのでボクは、自らの成功・名声・幸運を、自分ひとりの努力によって得たものとは考えていない。周囲の親切な人から与えられたもの。いや、いっそのこと、天与のものとすら考えている。
 ゆえに、無理な結果を得ようという気持ちはあまりない。あるのは、今ある環境を作ってくれた人と、幸運に対する感謝だけだ。そして過程をすっ飛ばして、結果のみを求めるような欲張りに対しては、傲慢であるとしか感じられない。

 ま、そこまで極端な清貧主義は、ボクが宗教学をやっている影響なのかもしれないけれど。
 どのみち出会いとは運のものだ。焦っても仕方がない。だったら今の自分に出来ることを、精一杯にやるしかないんじゃないかと思うのだ。結果なら後から自然とついてくるだろうから。
posted by はまさん at 01:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索的

2007年06月15日

シューキョーとキューサイ

 良く勘違いしている人がいるようだけど。宗教は別に、誰かの悩みを聞いてあげたり、癒してあげるための場所。現実からの、いわゆる《避難所[アジール]》じゃないんですよ?
 宗教が人に救いや癒しなどの、多幸感を与えるわざを持っていることは間違いないでしょう。でも、救済は宗教にとって、ごくごく一部。現世利益を目的とした、俗なる呪術的側面に過ぎない。

 本来の宗教とは《誓い》のようなもの。神の高みに近付こうとするために、自分で自分を厳しく律する生き方こそが、誠実な意味での宗教です。
 だから今が苦しいからと言って、宗教に頼ったとしても、解決できるとは限らない。

 そもそも、誰かに癒してもらおうとか、救ってもらおうと言うのが怪しい。
 確かに《救い》や《癒し》は、一時的に心の回復力を高めてくれるかもしれない。しかしそうやって与えられた元気は、しょせん一時的なもの。栄養ドリンクを飲んで、体力を前借りしているようなものです。もしくは酒を呑んで、勢いをつけているだけ、と表現すれば良いか。
 基礎体力がゼロなら、宗教の力を借りても、ゼロのまま変わりありません。

 まあ、一時的にでも元気が出たのなら、別に良いでしょうよ。大事なのは、自分が元気なうちに何をするか。せいぜい、心の基礎体力を鍛えるか、問題解決に立ち向かうことです。
 さもなくば、多幸感がなければ何も出来ない。依存症になってしまいますから。

 もし、それでも駄目ならどうするか。目の前に立ちふさがる問題が、どうやっても解決できないものだったら。そりゃあね。食って、休んで、気晴らしして、さっさと今の現実から逃げちゃうことですよ。
 能力の範疇を越えた無茶して、体を壊してしまうくらいなら。先に、それなりに諦めてしまう。そして自分に出来ることを選択する。出来る範囲内でベストを尽くす。
 それもまた努力の、ひとつのかたちじゃないでしょうかね?
posted by はまさん at 00:19| Comment(2) | TrackBack(0) | 思索的

2007年06月04日

覚え書き

ニューロンに関する本を読んでいて
なんとなく分かった。

なるほど、つまり

「知とは興奮である」と言うことか。
posted by はまさん at 12:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索的

2007年05月18日

自分の頭で考えろ

本当の意味で「自分の頭で考える」とは一体、どのようなことなのか。
ずっと曖昧なイメージのままで言葉に出来なかったのだけど、ようやく形になった。

「自分の頭で考える」と言うのは、「自分で自分の生き様を決める」ことである。
自分の妄想を正しいと思い込んで、他人の意見に聞く耳を持たない状態のことではない。

そして「聞く耳を持たない」状態とは
「自分で自分の生き様を決めない」もしくは「意地でも決めようとしない」だけ。

……そうか。
だから、自分の頭で考えたのではない言葉では、世界を変えることは出来ないんだ。
posted by はまさん at 00:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索的

2007年05月02日

批判すべきは弱さなんかじゃなくって

 自分が弱いからヘコむのではない。何かに失敗して、人に批判されてしまうからヘコむのだ。

 みんな、しょっちゅう忘れそうになるのだけど。「弱さ」は別に「悪徳」ではない。弱さとはせいぜいが失敗適性。失敗する才能のことに過ぎない。

 弱さとは、環境に対する適性であり、個性であり、人格[キャラクター]である。場合によって有効にもなれば、邪魔にもなる。それだけのものに過ぎない。
 弱さと失敗が悪となるのは、失敗を批判する他人の存在が大きい。

 他人の批判を恐れ、失敗を恐れると、人は自らの弱さを隠そうとする。
 しかし本当は、弱さが改善可能なら、さっさと直してしまえば良いし。改善が不可能だと言うのなら、さっさとその場から立ち去って、次に頑張れば良い。また失敗すると自分で分かっていれば、対処のしようもある。
 自分の弱さなんて、さっさと判明した方が良いのだ。

 弱さを隠してしまうと、自分に何が出来て、何が出来ないのか。成功するのか、失敗するのか。自分で自分が分からなくなってしまう。
 人間にとって未知は恐怖となる。弱さを隠すと、失敗する恐怖だけが残って、人はその場から一歩も歩けなくなってしまう。

 だから。
 他人の可能性を否定してはならない。他者の否定からは、何も生まれない。
 そんなに否定をしていたいのなら、今ある自分をブッ壊して、新しいものを作り出す努力でもしていれば良いのだ。

 たまにいるよね。「作者は読者の言うことを、ただハイハイと聞いていれば良い」とか「作者は読者様に逆らってはならない」的なことを平気で言う人が。
 でも、さ。自分だけは何も否定されない、安全地帯からの発言って卑怯だよね。壊すだけで、何も生み出さない。

 批判をするのなら、代替案を出す。破壊には創造を。それが反対意見を出すために必要な、最低限の「発言する資格」と言うものだ。
posted by はまさん at 23:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索的