2014年05月14日

『アナと雪の女王』はラノベである説【ネタバレ注意】

 『アナと雪の女王』見ました。なんでも、ジブリの『風立ちぬ』を差し置いて、どうたらとかいう賞を獲ったとかで。
 『風立ちぬ』も見ましたが、こちらは人類における普遍的な問題「仕事と家庭、どっちが大事なの?」に真っ向から格闘した、何という力作なのだと感じたものです。
 そんな『風立ちぬ』を越えた。こいつは見に行かねばというのが動機でした。

 で、見た感想。
 ううむ。ディズニーの古さを克服しようとする試みにより、ディズニーらしからぬ手法が散見できたというか……。
 ぶっちゃけ、コレ、能力ものラノベだなあと。『とある魔術の禁書目録』の第一巻のようだ、というくらいラノベ。
 ストーリーを要約すると、つまり

イヤボーン → 撫でポ


 まるでラノベのお手本のようだ。
 実際、「能力者」の存在が大前提として展開される物語として、ラノベ書き諸君において『アナ雪』はとても参考になるはずです。
 ただ『アナ雪』が「ラノベのよう」だったとして。とすればラノベファン的には、いいたいことが出てきてしまうわけなんですよねえ。

 ラノベファンの目線、というよりは設定厨として『アナ雪』を見ると、どうしても世界設定の緩さが気になってしまう。
 例えば、冬になっている間、国民はどうしてた。ラストでよく王女を許せるな。あの道具屋が唐突すぎる。そもそも魔法って何だったんだ。トロールって何だったんだ。真実の愛でなぜ魔法が解ける。
 もちろんファンタジーとは不可解な世界観を受け入れた上でないと楽しめないもの。だから、ある程度は「これはこんなもの」と了解して見るわけですが。『アナ雪』にはその《大前提》が多すぎる。

 なので設定に芯が通っていないように見えるというか。背景に奥行きが感じられない。
 喩えハードSFで多くの科学考証の上に成り立った作品でも、《大前提》が絞られていれば、ブレは感じられないはずなんですがねえ。
 ファンタジーだからって、ちょーっと「これはこんなもの」に頼りすぎてはいないかなと。

 という「奥行きのなさ」に能力ものラノベの物語構造が加わり、どうしてもボクには『アナ雪』が《セカイ系》に見えてしまったりしてね。だから余計に『アナ雪』がラノベに見えちゃう。
 もちろんディズニーも、わざわざ狙ってセカイ系にしたわけじゃないでしょう。結果論であって。

 結局は、「どうせ、こんなものだろう」という固定観念にとらわれ過ぎなのかなと。
 そもそも、こういう設定がなぜ出来たのか? 『アナ雪』が本当に能力ものラノベの影響を受けていたとして、そもそもこういうジャンルが、どうして生まれたのか?
 表層を取り込んだだけで、きちんと文化として咀嚼できていないから、奥行きが浅くなったんじゃないかなー、と思われるわけですよ。



 練り込みの不足は、一体感を損なう。これは、どのようなジャンルでも同じ。うどんとか、蕎麦でも、粉と水を繋いでコシを与えるのは練りの仕事です。
 じゃあ、どの辺が実際に練り不足なのかといいますとね……。

 まず根源的な問題として、魔法とは何ぞやと。あと《援助者》としてのトロールも何者だと。『アナ雪』を視聴するに当たって、魔法とトロールの存在。このふたつは絶対に欠かせないはずなんです。
 けどその「絶対に欠かせないもの」がふたつある。つまり物語としての軸が、ふたつに分裂してブレているわけですよ。
 例えばボクなら、魔法をトロールの贈り物だった、ということにしてしまう。姉妹が誕生した時にトロールが、エルサには変わらぬ美しさを、アナには人々を笑顔にする優しい心を贈る。すると全てが「変わらぬ」よう、国を凍り付かせるが、「優しい心」で笑顔になって「打ち解ける」とか。

 これならトロールが国王の助言者として機能していた辻褄も合うだろうし。「こんなもの」という大前提も整理される……とかね?
 実際に、こんな感じの昔話もありましたし。ちょっと自分の頭で考えれば、このくらい思いつきそうなものなのになあ。表層だけに囚われて、元型まで突き詰められていない証拠です。

 あと各メディアで話題の「ありのーままのー」という歌。映画を見て知りましたけど。本当はロクなシチュエーションで歌われていないというか。単なる開き直り、ヒャッハー! という曲じゃないですかー。
 たまたま音楽的にデキが良かったから、プロモーションに多用しているんでしょうけど。主旨からは全然、外れていますよね。ちょーっとそのあたり、行き当たりばったりじゃないかなと。

 あとディズニー的には、マーケティング調査の結果から、フェミニズムの見地を入れたい。だから女性が自立するシーンを入れる。
 でも、この後にエルサは実家にさんざん迷惑かけていたのが判明して連れ戻される。しかも男たちの手により、力尽くで。あげくに実家じゃ自分ひとりでは、どうにもできなくて、結局は家族に助けられて家業を継ぐことに。
 だから「ありのーままのー」という、女性が自立しようとするシーンがあるだけで。実際には自立なんてしない。それって、フェミニズム的には構わないのかと問いたい。

 またディズニーとしては珍しいダブルヒロインというのも。マーケティング的・ディズニーとして自己パロディ的にやりたかったから、という動機が先行し過ぎかなと。
 ボクも見終わってから、何度か自分で試してみましたけど。別にダブルヒロインやらなくても、お姫様と王子様のラブロマンス、で普通にやってプロットは通っちゃうんですよねー。悪役を隣国の偉いさんだけに振り分けておいて。王子をイイモノにしておけば。あれっ、氷売りがいなくても話ができちゃう。
 ならばフツーのディズニー映画でええやん。なぜ、わざわざダブルヒロインにしたのか。単に「今までとは違う」感を出したかっただけじゃないのかと。

 というように、物語の中心軸となるべき要素が、中心とならずに、どうにか入れ込んだだけになっているんです。
 こりゃ、やっぱり、今でもハリウッドはシナリオライティングを、ビートシート頼りになっている弊害が大きいのかもしれません。
 どこがビートシートっぽかったかって。道具屋のシーンですよ。道具屋で仲間集め。装備を揃える。そのすぐ後で、ソリをなくすことにより、仲間も後に引けなくなる動機が生まれる。
 まさしくビートシート通り(笑)

 ビートシートに頼って、全体の一体感を意識しないから、基本的にストーリーが「うっかり」で進展するハメになる。
 つい魔法が命中した。つい魔法が暴走した。つい夜中に旅立ったら、オオカミに襲われた。
 展開を助ける、伏線の張り方がどうにも弱い。すると「どうせ夜に出発するからオオカミに襲われるだろ」というように。物語内にたくさんの「どうせ、こんなもの」という《大前提》が入り込む羽目になる。
 すると物語全体としてはブレが生じ、物語構造としては強さに欠けるものとなります。これこそビートシートに頼りすぎる弊害。

 とはいっても最近はビートシートのせいで、同じパターンの構成の映画が多いのを気にしているのか。どうにか最後の方にドンデン返しを入れ込みたい。というわけで最近のハリウッドでは「味方だと思っていたヤツが裏切る」という展開が流行のようです。
 ボク……何作か連続して同じパターンの映画を見ちゃって……本当、今のハリウッドって自己喰いの、縮小再生産になっているのだなと。

 だから王子の詰めの甘さも、ドンデン返しを行いたいがために入れた感じがある。死亡確認もしていない、トドメも刺してないのに、なぜ露悪的に企みをバラす。だから逆転を許してしまうというのに。
 ならば、なぜ企みをバラすのかって、物語進行の都合ですよね。知ってます。

 というように、マーケティングだけで設定とシーンを決めている。やりたいから、やっているのではない。自発的でない。表層だけで、全体のまとまりに欠ける。ゆえの練り不足。
 だからラノベファンとしては、どうしても疑ってしまうのです。もしかして、「ラノベみたいな能力もの」を入れてみたかっただけじゃないか? と。
 ならばディズニーの新しさとは、一体どこにあるのか?



 昔々のこと、ディズニーは経営危機に陥った時。セルアニメ職人を大幅にリストラしました。するとアニメ会社だというのに、当然ながらアニメが作れなくなる。特にセルアニメは腕のある職人でないと、キャラに良質な「動き」をさせられない。
 そこでディズニーはセルアニメを完全に切り捨てて、CGに特化することにしました。CGならばテクノロジーが蓄積される。職人技がなくとも、蓄積を再利用すれば誰でも一定レベル以上のクオリティを保つことができるはず。

 確かに『アナ雪』のCGは凄かった。凄かったけど、改めて思い知った。CGの凄さとはテクノロジーの凄さであって、人の凄さではないのだな、と。
 そしてテクノロジーとは誰にでも再現可能な点に本質がある。誰にでも出来うることに、関心はしても、感動は起こらない。驚かない。お隣さんが最新の高級電化を購入したのを見て、羨ましいとは思っても、じゃあ自分はもっと安くなってから購入すれば良いわけですよ。
 これが日本人なら、いつの日かディズニーレベルの完全な再現とはいわないでも。MikuMikuDanceあたりでディズニーの凄さの、七割くらいあるエフェクトを開発・フリーで配布しちゃうんだろうなー、って気がするんですよ。

 じゃあ、もっとCG技術を発達させたらどうなるのか。これ以上は「細部の差異」でしかなくなってしまうと思うのです。
 「凄い」を発達させて「もの凄い」になったところで、一般人に差はわかんない。差が分かる人間がいたとしても、マニアックな一部の層のみ。ディズニーが狙うマス層とは外れます。
 じゃあ、そこそこレベルのフリーソフトを使っても、素人とハリウッドが変わらない、という時代が確実に到来してしまう。その時になって「CG技術のすごいディズニー」の存在価値は残っているのか、という疑問がある。
 技術競争が終わったら、結局はディズニーが過去に捨てたはずの、職人による時代が再来するとしか考えられない。



 ならばストーリー方面の新しさは何かあるのか? パクリ疑惑に関して、今回は問わない。重要なのは、発想の方向性だ。
 とにかくマーケティングでウケそうな要素をてんこ盛りしました。ビートシートに依存して構成を行いました。ラノベのような能力者もの、という要素を入れてみました。
 ……ラノベファン的に。ディズニーという「古い酒」を、ラノベという「新しい革袋」に注いだところで、酒まで新しくはならないと思うんですけど?

 オープニングにやっていたミッキーマウスの寸劇を見てもわかる。新しいことが思いつかないディズニーは、とうとう自己パロディでのウケを狙いに来たのだなと。
 ボクはあの寸劇を見ていて、すごく鼻についたんですね。いかにも、CGアニメの方がセルアニメより進化しましたよ、って主張しているようで。
 何でも欧米では現在、CGアニメしか評価されない・しちゃいけない、みたいな風潮・レギュレーションが成立しつつあるそうです。だったら『風立ちぬ』がセルアニメとして、いかに職人技を駆使した素晴らしい作品であったとしても、そりゃ賞は取れない。

 けど、ストーリーとは、作品の新しさとは、人の自由な発想力によるものです。発想だけは、テクノロジーによる大量生産が不可能。
 ところがオープニングの寸劇といい、プリンセスものを逆手に取った『アナ雪』といい。どうもディズニーは新しさをあきらめて、自己パロディの使い回しに走っているように見える。

 ボクが思うにディズニーに限らずハリウッド映画全体が芸術の様式として、ロココ期に入ってしまったのかなと思うのです。ロココ期つまり、装飾性だけが先行し、表現としてはむしろ衰退する期間。
 ボクの憧れたハリウッド映画といえば八十年代。自由な発想を、優れた技術で表現してくれたハリウッドだったのですが。
 今のハリウッドって、日本のアニメを映画化すればコレジャナイ改悪ばかり。ストーリーはビートシート頼り。企画は続編ものばかり。「演出だけなら良いんだけど」のハリウッドになってはいるよね?
 だからロココ期。



 ここから文明批判になってしまいますが。ボクが考えるに、拙くとも構わない、今こそアメリカ社会には新たなメルヘンが必要なのではないでしょうか。

 人には、山や川や空、世界のあらゆる事物から、物語を見いだす能力が備わっています。この能力こそを「メルヘン」ということにしましょう。
 メルヘンさえあれば、世界のあらゆる事物から物語を見いだせるとすれば。画期的な新しいアイデアから、使い物になるような物語を導き出すのも。前例[モデル]のない状態から物語を作り出すのも。メルヘンが持つちからのはず。

 ところが現在のハリウッドでは、手持ちの物語元型がどれもこれも使い古されている。仕方ないから他国……主に日本のコンテンツを映画化権だけ買っておいて、他社に使われないよう塩漬けにしておく。
 ネタがなくて仕方ないから、ヨーロッパのおとぎ話を使い回す時期は、既に過ぎたとボクは思うのです。そろそろアメリカは、イチからメルヘンを作ろうとする努力をすべきだと。

 恐らく今のアメリカにこそ、新たなメルヘンが必要なはず。新しい物語がないから、日本と良く似た作品をリメイクして、世界中に売る。韓流戦法と大して変わりません。
 ボクにとってのハリウッド、八十年代のハリウッドとは、想像力のハリウッドだった。個人的には、もっと自由にやってほしい。メルヘンとは自由な発想から生まれるものなのだから。

 なのに最近のハリウッド映画って、似たようなパターンばかり。特に、自己肯定の物語ばかりなんですよね。
 退役兵で妻子とも別居した駄目な俺に事件が起こって、輝くチャンスが与えられる。皆が肯定してくれるから、俺は間違ってない。敵対者も結局は、主人公の正しさを引き立てる役目しか果たさない。ファンタジーをやっても、史実のポカホンタスじゃないですが、原住民どもは俺のための引き立て役としか考えていないフシがある。ビートシートでの物語構成も、どう頑張ったって自己肯定にしかならないし。
 こうした自己肯定の物語って、構造的にハーレムものラノベとほぼ同じです。だからボクは最近のハリウッド映画って、ラノベ化しているという印象がぬぐえなかった。
 自己肯定が悪いとはいわない。ボクも好きですよ。ただ、自己肯定しか受け付けなくなったら、そりゃ既に病んでいるとしかいえない。



 自己肯定の物語とは、比喩表現で喩えれば《同化》に当たります。認識を過度に自動化し、認識の努力を節約する。
 そのような世界を受け入れるのは簡単になるでしょうが。他者性はなくなる。他者がいなければ対話もなくなる。対話は物語の根源です。
 そりゃあ世界との対話を行わない者に、メルヘンが湧き出るわけがない。

 そして同化の対立概念に《異化》があります。異化とは、本来違う世界で、違う意味に使う言葉を、本来の意味以外の使い方をして、そのものの本質に迫るという技法です。
 と同時に、異化は文学性の源泉ともいわれています。異質なものを認めることで、新たな世界を発見する。他者との対話を行う。それが異化。
 自分以外の発想を認める態度もないなら、ストーリーとしての意外性も出しにくくなって当然でしょう。

 アメリカという国はリアルで俺TUEEEをずっとし続けてきました。自己肯定の物語の中に、ずっといた。今は暴力を持っているから、周囲も仕方なく話を聞いてあげているけれど。
 アメリカという物語は既に、対話を行えるだけの他者性は失われているのかもしれません。だから自己反復になる。だから物語が使い古されてしまう。他人の痛みが、自分の未来像が、想像できなくなる。
 擬人化するなら、昔の自慢話ばかりして、他人の話を聞かない頑固親父みたいなものです。

 TPPの関係でどうやら、ミッキーマウスを守るために著作権を七十年に延長しようなんて話も出ていますし。ディズニーというか、アメリカ、過去の栄光にこだわり過ぎだろうと。
 アメリカに必要なのは、理想の自分像を再確認することではない。今とは違う新たな自分を発見することだ。そろそろ、おとぎ話の換骨奪胎を辞めるとか、ミッキーマウスに次ぐ新たなキャラクターを創造するとか。その位の気概でやっていただきたい。

 というようなアメリカ、ハリウッド映画が変わってはいないか。確認のために『アナと雪の女王』を見させてもらいましたが。
 うん、まあ……自己パロディまでやったのだから、手持ちの武器が今度こそ尽きたって、自ら露見させちゃったよね。じゃあ次はどうするのか。ディズニー、今後の悪戦苦闘を期待したい。



 あっ、でも『アナ雪』にひとつだけ。個人的には画期的だったという評価したい点がひとつあります。
 政治家の失敗を喧伝し吊し上げさせたところで、正義ツラした他国がその国の実権を「民主的に」乗っ取る。これって、まさしくアメリカさんがリアルで多用している手口じゃないですかー。それも、現在進行形で今まさにやっている最中じゃないですかー。やだー。
 まさか「アメリカ自身」がこんなブラックかつ自虐的な自己批判を行うとは。その精神は高く評価したいところです。
posted by はまさん at 23:25| Comment(1) | 感想的(映画)
この記事へのコメント
この間地上波初登場してたのを見て、「アナ雪って、セカイ系じゃね…?」と思ってここに辿り着いたえりと申します。初めまして、考察大変興味深く、楽しく読ませていただきました。
そうそう、アナ雪ってセカイ系ラノベだよね、そう!と思って読んでいたのですが、こちらの考察を読み終わるころには、むしろ「アナ雪ってラノベじゃなくない…?」という気がしてきました。アナ雪はセカイ系ラノベではなく、セカイ系ラノベを原典とした「絵本」なのではないかと。昔の人が現実の人間関係のいざこざあるあるを集めてイソップ童話を作ったように、アナ雪はセカイ系ラノベを「ネタ元」の次元に置いて、それをさらに絵本化したイソップ童話の次元にいるのでは、と思いました。
そして当時アメリカの女児が曲がりなりにもアナ雪に熱狂したことを省みれば、むしろセカイ系のしくみは文化や時代を超えて普遍的に通用する訴え力を持っているのではないか。それは逆にセカイ系手法を再評価するべきではないか、と思うに至りました。

何年か前の日記にコメントしてますので、その後もちろんお気づきになったと思いますが、ブログ主さんが考えられたアナ雪のプロット改案やエルサの自立のしかたについては、「マレフィセント」で回収されましたね。マレフィセントは若干マッチポンプっぽさがありましたが、一応おとぎの国の女社長になって男の排除にも成功しましたし。やはりディズニー内でもアナ雪の設定のガバガバさに疑問が出て、賢い人が同コンセプトのアップデート版を作ったのかな、とこのブログを読んで思いました。

ですが、小娘の立場から申し上げますと(笑)女の子の自立って別にエルサ的な自立でも別にいいんですよね。特別エルサになりたい職業があるとか、カキ氷師になりたかったのにそれを親に反対されてたとかそういうのがあったら別ですけど、女の子は自立を考えるときに特に家の意向に沿ってしまったから負けだとか、ビッグになりたいとか無いですから。もちろん他人の利益の為に利用されて頭の中まで支配されるのは嫌なのでそれとは戦わなくてはいけないんですが、自分の感受性が周囲から肯定されて仲良く一緒にいられるなら、もうそこがゴールということで多くの女の子は納得するんじゃないか?と思います。エルサは女王なのでちょっとややこしいんですが、プリンセスって素敵よねっていうだけでエルサはプリンセスなのであって、別に支配権を持った女ボスになりたいわけでもない。実家の敷いたレールから降りなかったからそれは完全な自立ではないのではないかといわれると、男は自立をそんな風に立場で表明しなきゃ気が済まないのかしら?という感覚なんですね。
それを考えると、やっぱりマレフィセントは男性的なテコ入れが入った結果なのかなと思います。
Posted by えり at 2017年03月08日 22:49
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