2009年04月26日

小説書きのための構造主義(24)

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■相対と絶対(3)

 ならば相対的と絶対的で、どうして違いが起こるのか。どこに違いが存在するのか。それは《比較するもの》と《比較されるもの》との関係により生じる。

 絶対的なものの見方の場合、《比較されるもの》と《比較するもの》の両者は固定されて動かない。固定されているがゆえに《絶対》なのだ。
 そうして《比較されるもの》が変わることもなく、また《比較するもの》から見える光景も変わらなければ、判断が変わろうはずもない。
 ただしその代わりに、《比較するもの》は目の前にある《比較されるもの》しか見えなくなってしまう。つまりは、視野が狭くなるということだ。

 一方、相対的なものの見方の場合は、《比較するもの》と《比較されるもの》の両者は常に動いている。
 そのため、確固として揺るがない自分だけの信念、などというものは持ちづらくなるだろう。もしかして、自分が何を見るべきなのか、失ってしまうことすらあるかもしれない。
 だが、いろいろな立場からものを見ることはできる。結果、視野は広くなる。

 両者はちょうど、天動説と地動説の関係に良く似ているかもしれない。自分は動くことのない天動説が、絶対主義であり。自分も天の中で動き回る一点に過ぎないとするのが、相対主義ということだ。
 見るものは同じだったとしても、そうした世界観の違いによって絶対・相対の違いが生じるのである。

 余談だが「天動説と地動説」といって、思い出した方はいないだろうか。絶対・相対の関係は、一人称と三人称の関係にも良く似ている。
 一人称は焦点子の主観による意見なので、感情移入しやすくても説得力を持つのは難しい。すなわち絶対主義的な文章となる。
 三人称は他人の観察による報告となるので、客観的な事実に基づいた、相対主義的な文章となりやすいのだ。

 ところで以上を例えると。小説家になる夢を抱いている、中高生くらいの少年がいたとしよう。彼は進学を嫌がっている。大人たちの反対を押し切って、小説家になる勉強をするためだ。だが彼自身はまだ、自分で作品を一本も書き上げたことはないし、普段から文章を書きもしていないとする。
 絶対的なものの見方からすれば。小説家になりたいという夢を抱いている、自分の考えこそが最も大事である。自分はきっと小説家になれるはずだ。と、こうなるだろう。
 だが相対的に考えると、自分にとって絶対なる「小説家への夢」が、他人である大人たちにも大切なものとは限らない。自分の夢を叶えてくれる人なんて、世の中には誰もいないわけだ。それに、進学を勧める大人たちにも、それなりの事情があるだろう。彼らは少年が夢を叶える、その困難さを知っているのかもしれない。
 では、もしこの少年が、大人たちの立場を知り、自分を心配してくれていると知ったら、どうなるだろう。また自らの夢見る姿が、他人にとってはどうでも良い、《よくあるパターンのひとつ》に過ぎないと知ってしまったなら、どうするだろうか。どのみち、夢見てさえいれば幸せでいられた時期は終わってしまうに違いない。
 しかし、その上でなお夢を諦めず。自分の願望と、大人たちの論理との《すりあわせ》を、努力という形で続けていれば。いつかは再び、他の誰に何といわれようが揺るがない、自分だけの《絶対》なる夢を取り戻すことができるだろう。

 そして物語を分析する上でも、同じように。他人の作品で感動しましたという《絶対的》な視点に留まっているだけでは、何も分からないし、何も身につかない。それでは単なる、いちファンと変わらないからだ。
 自分もその作者と対等の、書き手としての目線で《相対的》に、物語を読まなくてはならない。その上で、他人に流されない、確固とした自分の意見を持てるようになる。
 相対と絶対、どちらかだけではいけない。書き手には両方の視線が必要となるのだ。

つづく
posted by はまさん at 23:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載:構造主義教室
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