2009年04月23日

小説書きのための構造主義(23)

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■相対と絶対(2)

 ところで《相対主義》の対義語として、《絶対主義》と言う語が。《相対的》の対義語として、《絶対的》と言う語がある。
 こちらの《絶対主義》とか《絶対的》と言った語の意味とは、どのようなものなのだろうか。
【絶対主義】
哲学で、絶対者または絶対的な真理や価値規準を認める立場。アブソリューティズム。
(Yahoo!辞書より)

【絶対的】
他の何物ともくらべようもない状態・存在であるさま。「―な信頼を得る」「―に有利な立場」
(Yahoo!辞書より)

 例えば「俺は歌が上手い!」と思い込んでいる人がいたとしよう。ならば、その「上手い」と言う基準はどこにあるのか。

 相対的な判断がなされている場合。「これこれこう言う大会で賞を貰った。だから大会に出たが賞を貰えなかった、もしくは貰えない技量の人間より、自分は上手である」と言うように。具体的な比較例あっての判断だと言うことになる。
 相対的なものの見方において、他者との比較はとても大事だ。なるほど、これなら確かに一定以上の技量を持っていると判断することは可能だろう。

 対してこれが絶対的な判断である場合。「知り合いが褒めてくれた」とか「自分で思い込んでいる」から、「自分は上手である」と言う判断が下されることになる。
 絶対的なものの見方において、他者との比較は、ほぼ行われない。判断の基準は、自分の中にしかない場合がほとんどである。
 だが論理学的に、あらゆる真理とは反論可能なものである。世界上のどの場所でも、歴史上のどの瞬間でも、不変となる真理など存在しない。人によっての事情と立ち位置で、価値観というものは変わってくる。《絶対》の価値とは、個人的な思い込みに過ぎないのだ。
 ゆえに、どうしても《絶対的》な判断は、説得力がなくなってしまいがちになる。

 ならば《絶対的》なものの見方とは、間違っているのかというと、そうでもない。
 「歌が上手」な理由が自分の印象だけだと、「そりゃないだろ」と思われるだろうが。しかし、このセリフをいった人が例えば、誰しもが認める高名な世界的ミュージシャンであったなら、どうだろう。きっと誰も反論できず、正しく思えてしまうのではないだろうか。
 《絶対》とは、それはそれでひとつの見方に過ぎないのだ。

 もちろん《相対的》であるからといって、必ずしも正しくなるというわけではない。相対的ゆえに他人の意見に流されて、間違ってしまうこともあるだろう。
 不変なる《絶対》が存在しないように、絶対の《相対》も存在しない。《相対》も《絶対》も、説得力の有無に差はあるだろうが。両者間に貴賤の差はないのだ。

つづく
posted by はまさん at 23:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載:構造主義教室
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