2007年03月01日

「個性を伸ばす=ゆとり教育」にツッコミを入れておく 第4回

目次 : 第1回 第2回 第3回 第4回
--------------------------------------------------
■文学者として教育を語る

 どうやら、ゆとり教育は失敗に終わったようですね。週休二日制の廃止など、いま政府は急いで方針転換しようとしている最中なのでしょう。
 学力低下に学級崩壊。確かに、ゆとり教育は失敗だったと思います。ですが、ゆとり教育が直接の原因となったのは、学力低下だけで。学級崩壊の方は、ゆとり教育が関係しているとは限らないのではないでしょうか。別に、ゆとり教育でも管理教育でも、学級崩壊は起こっていたとボクは考えているのです。

 たとえばの話になりますが。もしも、これだけ勉強しておけば一生必ず幸福安定間違いなし、と言う保証があったとしたらどうでしょうか。きっと誰だって喜んで勉強するに違いありません。
 知識つめこみ式の管理教育の頃はまだ、勉強することが幸福につながっていました。学歴社会がまだ健在だったからです。一流企業に入りたければ、一流大学に入れば良い。そして、一流企業にさえ就職できれば生涯の安定が得られる。
 そうやって、誰もが無邪気に信じられていた時代が確かにあったのです。その頃であれば確かに、受験戦争による弊害はあったのでしょうが、そのデメリットよりも受験を勝ち抜くことによるメリットの方が大きかった。だから誰も文句を言わなかった。

 しかしバブル崩壊により、その神話は失われます。一流企業であったとしても、安定した一生を得られるとは限らない。いつ不景気で倒産するかもしれないし、リストラされるかもしれない。頑張って勉強して一流大学に入ったからと言って、幸福になれるとは限らない。幸福になれる保証なんて、どこにも存在しない。受験勉強をする旨味が、肝心の受験生たちから失われてしまいました。
 では、なぜ勉強をしなくてはならないのでしょうか?
 学歴社会の崩壊により、真面目に授業を受けるだけの動機が、生徒たちから失われている。必要がないから勉強しない。それが、いま起こりつつある学級崩壊の正体ではないでしょうか。だから、ゆとり教育でも管理教育でも関係なく、学級崩壊は起こっていたと思うのです。
 実際、学級崩壊で暴れている生徒たちも、塾に行けば大人しくしているでしょう。厳しくすれば、体罰を復活すれば、学級崩壊が治まるとは限りません。

 じゃあ、勉強する動機さえ見つければ学級崩壊は止まるのか。止まりはするでしょうが、そんな簡単な問題ではないと思います。
 無理矢理に勉強させて「大学へ行かせる」だけなら、難しくはないでしょう。しかし生徒が「大学へ行く目的を見つける」ことが出来るか、と言うとこれは困難です。いきなり勉強する動機を持てと命令されても、心の問題は誰にも強制できません。
 動機と言うものは結局、生徒ひとりひとりの自主性の問題となってきます。ですが長い間、日本の教育はデメリットシステムを行って、生徒の自主性を押しつぶしてきました。そしてデメリットシステムとは、教師が自らの責任を放棄して、少しでもラクするためのシステムです。
 どうやれば自主性を持てますか? そう聞かれたとしても、今いる教師たちには答えられないのではないでしょうか。そもそも、今の教師たちに自主性があるとは思えませんし。そんな見たことも聞いたこともないものを説明できるわけがありません。

 現在、なぜ日本教育が荒廃しているのか。
 それは、教師が「どうして勉強しなくてはいけないの?」と言う生徒の根本的な問いから逃げ続けてきたからだと思うのです。

 教師は生徒に向き合わなくてはならない。しょちゅう出てきますよね、この御題目。しかし「生徒と向き合え」と言っても別に、対話しろとか理解しろとかワガママを聞けと言うのではありません。教育の結果に教師が責任を持てと言っている。自らの言葉に責任を持てと言うのです。
 しかし日本社会で「責任」と言うとすぐ、失敗しないのが責任である。ゆえに失敗は隠さなくてはならない。と言うことになってしまう。だがこれではデメリットシステムは改善されません。
 日本社会ではなぜか、失敗に対して拒否反応が大きい。失敗を犯した者に対しては魔女狩りが行われ、「責任」と言う名目で組織を追放される。もしくは厳罰が与えられる。いわゆる「腹を切れ」と言うやつだ。しかし人間と言うものは必ずいつか失敗を犯してしまう存在である。失敗しない人間などいない。ゆえに失敗を許さない組織においては、人材が育たない。失敗した人間はすぐ交換、では成長させてもらえる余裕がないからだ。また失敗例の蓄積も行われないため、たとえ人材を交換したとしても、必ず同じ失敗が起こることになる。でなければ、失敗を隠蔽するしかない。

 違うのだ。
 大事なのは成功することでも、問題を起こさないことでもない。失敗をしないための「責任」ではないのだ。失敗とは、再び同じ過ちを起こさないための経験である。必要なのは「次こそはうまくやってみせる」と言う発想ではなかろうか。
 例えば、将来的に起こりうる大きな失敗を避けるにはどうすれば良いか。日常的に小さな失敗を重ねることで、失敗に対する経験値を積んでゆくしかない。これを逆に考えるなら、日常的に失敗することを避けてきた、もしくは隠蔽してきた人間は、将来的に致命的な失敗を起こす可能性が大きいと言うことになる。
 だから、デメリットシステムの中で生きている人間は、成長しない。そして、自らの過ちから逃避して隠蔽してきた結果が、現代日本における教育のありさまではなかろうか。そりゃあ、そんな先生に教えられれば学力低下も起きるし、学級崩壊も起こしたくなるっつう話ですよ。

 確かに教師とは生徒と言う、生きた人間を相手にした職業である。失敗なら分かりやすいが、何が成功で何が成功でないのかは判断しづらい。ともすれば問題と失敗ばかりが目立つこととなる。ならばと言うことで、デメリットシステムが構築されたのであろう。問題を起こすかもしれないから、何もやらない。誤解を生むかもしれないから、何も伝えない。
 しかしそれって、教師としての資格があるだろうか。教師とは結局、給料を貰うための「仕事」である。教師は生徒の未来に対して責任を負っている。だが責任と言っても、失敗を避けるのではない、問題から逃げるのでもない。成功を目指す姿勢こそが、自分の職に対する責任と言うものではなかろうか。
 それをただ「失敗するかもしれないから、何もしない」って、プロ失格だと思うのだ。

 これから言うことは、小説書きなど、創作に携わる人間なら誰でも知っていることだ。
 自分の思いを他人に伝える努力なしに、世界は何も変えられない。思いだけでは、何も伝えられない。念じるだけで恋が実るのなら、この世はとっくにストーカーだらけになっているはずだ。
 そして思いを伝えるための努力とは、イコール、自分の思いが他人に「伝わらない恐怖」に耐えること。耐えてその上で、問題を解決するための工夫を積み重ねる。そうやって、失敗を恐れながらも成功を目指すのが、自らの責任を果たす、ってやつじゃなかろうか。
 こんなこと、創作者なら誰でも知っている。

 結局は、教師ひとりひとりの心の問題なのだ。そして教職は、国から保護されすぎて殿様商売になってしまっている。結果、全体として日本教育のクオリティは下がってしまった。だから時代の変化にもついて行けない。学力低下も学級崩壊も、何ら不思議な現象ではないのだ。
 別にね、管理教育でも生徒の個性を伸ばすことは不可能ではない。なぜなら、管理教育と個性を伸ばす教育とは、相反する概念ではないからだ。ただし、デメリットシステム下では、絶対に生徒の個性が伸びることはない。デメリットシステムとは、生徒の自主性を犠牲にして成り立っているシステムだからだ。そしてデメリットシステムとは結局、教師ひとりひとりの心の問題と言うことになる。「デメリットシステム」とはつまり、事なかれ主義に過ぎないのだから。

 確かに、教職とは何が成功で何が成功でないのか、分かりづらい仕事だろう。だが教師とは、生徒自身がどうすれば幸福になれるのか教える仕事だ。「伝える恐怖」に負けて、何も伝えない、と言うのは職務怠慢である。教師として給料を貰う資格はない。
 そして、自分の思いを伝える努力とは、自分が自分で自分らしく生きようとする努力、でもある。人間であれば誰でも逃れられぬ、義務のような努力だ。それを省く、と言うのは自分で自分は人間失格ですよ、と主張しているのに似た行為である。

 ……と以上、では教育者はどのような改善策を採れば良いのか。無責任なようですがボクは専門の教育者と言うわけではないので、システムの内部に関して、あーだこーだと言うつもりはありません。その資格もないと思っている。ボクは教育者ではなく、あくまで文学者です。そもそも、プロが何を素人を相手に自分の仕事の改善策を求めてるんだ、って話になっちゃいますよね。
 ではなぜそのブンガクシャ様が偉そうに教育について語っているのだ、と言うことになるでしょう。ですが、実はこのエッセイで書いた内容は、ごくごく当たり前の知識を並べただけ。その道のプロをやっている教育者なら、誰でも知っている程度のもののはずです。
 だと言うのに、なぜここまで自らの問題を放置しているのでしょうか。問題を改善できないと言うのなら、その方は教育者としてプロ失格でしょうし。また、改善なんてするつもりがないと言うのなら、その方はプロ失格以前の、人として道を誤っているとしか思えません。

 しかし、ボクと言う文学者風情でも、「言葉の責任」が持つ意味を知っています。そして教職も基本的には、同じ「言葉の責任」と向かい合う仕事のはずです。
 だが傍観者の目から見ても、教育者たちが自らの「言葉の責任」を果てしているとは、到底思えない。その行いは、言葉に携わる人間として許せなかった。全ての人間は皆等しく、その責任と向き合わなくてはならないのに、自分たちだけ逃げているのが腹立たしかった。
 このエッセイを書いたのは、そのような思いあってのことです。

 とは言っても、やはり内容としては、プロからすればごくごく常識的なものばかり。
 ですからこのエッセイは、いま現在デメリットシステムの学校教育に苦しむ、子供たちに送りたいと思います。今ある自分の社会の、飾りない姿を知っておく。自分と言う存在が、自分の喜びや苦しみや悲しみが、自分だけで存在するのではない。社会や他人との関わり合いの中で築かれたものだと知っておくのは、悪いことではありません。自分たち子供たちが苦しんでいる背景には、身勝手な大人の存在がある。そんな身勝手な大人を、みなさんは「正しく」軽蔑してほしい。その憎悪が未来を正しい方向へと導くこともあるのだから。
 ……なんてね。当の「身勝手な大人」たちは教えてくれないでしょうからね。



 あれっ? なぁんだ、ボクってば文学者なのに、教育者よりもマトモな教育っぽいことを言ってるじゃん。不思議だね。
 とオチを付けて、以上でこのエッセイを終わらせて貰います。
posted by はまさん at 01:06| Comment(4) | TrackBack(0) | 連載:はま受験(完)
この記事へのコメント
興味深く拝見させていただきました。
確かに学校には様々な問題がありますよね。

でも、受験戦争は一体どうして起こるのか?と考えたとき、やはり日本の社会がそういった人材を求めているからです。

結局、上(国)が変わらないと下(学校)も変わらないんですよ。
この言い方だと、あきらめているように聞こえますが、それでも下からでも頑張っているひとだっています。

あと、「子食い」ですが、子供が弱者なのではなくて、そこに需要がありビジネスが成り立つからです。
これは、教育界だけではなくどこの世界も一緒。


最後にはまさんはこのエッセイを子供達に送るとおっしゃってますが、このエッセイでは、「すべての教師は身勝手だ」と言っているようなもの。
更に学級崩壊を招くのではないですか?

教育に怒りを覚える気持ちはわかりますが、文学者のはまさんなら、こんなエッセイを子供達に送るのではなく、本を執筆して社会を変えることだってできるのではないですか?

エッセイでもおっしゃっているように、言葉は強いのだから、教師が学校制度を変えるよりも早いのでは?

お持ちになっている力・頭脳をもっと別の方法で有意義に使えるはずです。

批判するだけなら誰でもできます。はまさんのエッセイにあるように、その言葉を社会に届伝えてください。
Posted by もも at 2007年04月11日 16:16
現在お返事を書かせてもらっているところですが、少々長くなりそうなので、お待ち下さい。
Posted by はまさん at 2007年04月14日 00:40
私の意見におかしなところがありましたので訂正させていただきます。

受験戦争は社会がそういった人材を求めているのではなく、大学の入試問題のせいでした。

社会はもっと実践力を求めているわけですから、最初の私の意見は違いますね。

なので、大学が入試問題を変えればいい話でした。

入試問題が変われば、大学以下の教育現場の教育ももっと質が高い、興味深いものに変えられますよね。

どうしても、気になって訂正させていただきました。


失礼しました。
Posted by もも at 2007年04月14日 14:17
http://blogs.dion.ne.jp/hamalog/archives/5436643.html

レスが長くなってしまったので、こちらの方に返答を掲載させてもらいました。
Posted by はまさん at 2007年04月16日 01:13
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/86262873

この記事へのトラックバック