2007年02月26日

「個性を伸ばす=ゆとり教育」にツッコミを入れておく 第3回

目次 : 第1回 第2回 第3回 第4回
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■子殺しの教育システム

 日本の教育は基本的に、「デメリットシステム」により行われている。何かすることのメリットよりも、失敗した時のデメリットを教えられる。すると子供たちは、自発的に何かをすることは悪いことだと考えるようになってしまう。この点、ゆとり教育も管理教育もあまり変わりはない。
 例えば、詰め込み型の管理教育ならば。受験勉強だけをさせておけば、教師はすごく授業がラクになる。生徒に何を教えれば良いのか、自分で判断しなくても良いからだ。
 そして、ゆとり教育と言うのも結局は、授業数を減らして学力低下を招いただけだった。ゆとりと自由の大義名分の元に、生徒を放置していただけである。だがこれも教師としては、すごくラクなのだろう。何しろ、生徒の面倒を見る手間が少なくなったのだから。

 ただひたすら、デメリットシステムにより生徒は何も問題を起こさないことだけを教え込まれる。悪いことはさせない、でも良いことも後が面倒臭いのでさせない。何もしない大人しい子は教師にとって一番ラクな存在だ。
 ゆとり教育と管理教育。どちらにも言えることがある。それは、いかに大人が子供の責任を負わないようにするか、と言うことしか大人が考えていないのだ。子供が何か過ちを犯したなら、代わりに責任を負う。それが大人と言うものだ。だがその肝心の大人が、子供のためを考えないようになった。

 そう考えると現状の学校システムでは、「個性を伸ばす教育」を行うことが出来ないのも納得が行く。
 社会的に必要な個性とは、単なる特殊性を指して言うのではない。子供が自分の意思で、自分の問題を解決できるようにする。確かな主体性・自主性を持たせる。これが真の意味での、個性を伸ばす教育と言うものだ。
 だが生徒が主体性を持つと、教師にとって生徒が制御不可能な存在となりうる。主体性を持つと言うことは、生徒が自分の意思で行動すると言うことだ。それは同時に、何らかの問題を起こす可能性があると言うことでもある。デメリットシステムのままでは、生徒の個性を伸ばす教育を行うのは絶対に不可能なのだ。
 更には、生徒が主体性を獲得することで、教師はもっと大きな困難に向き合わなくてはならない。

 主体性を身に付けるには、問題解決能力が必要だ。そして問題解決能力の修得には前提として、問題発見能力が必要となってくる。もしも、個性を伸ばす教育によって生徒の主体性が成長すると、問題発見能力も成長することになってしまう。つまり、教師が間違った行いをした場合、生徒から批判される恐れが生じるのだ。
 ゆとり教育でも管理教育でも、競争が行われていると言う点では違いはない。管理教育では受験戦争に打ち勝つため、より多くの知識を詰め込んだ者が勝者とされる。ゆとり教育ではデメリットシステムの下、教師に手のかからない「いいこ」が優等生として選別される。
 確かに優劣で人間を語るのは簡単なのだろう。だが、他人を評価して優劣を語る人間に限って、自分は絶対的優位にいて揺るぐことはないと信じ込んでいる場合が多い。ではそんな、優位にいる人間が劣る立場に追いやられるとしたら、どうするのか?

 「学ばれる」立場にあると言うことは、自分から学んでいる人間が、自分より上位に立つかもしれない。と言うような恐れが常につきまとう。デメリットシステムは、その恐怖から教師たちを守ってくれていた。
 だが、個性を伸ばす教育によりデメリットシステムが崩壊してしまったらどうするのか。自分が、自分の生徒に追い越されてしまうかもしれない。全ての教師がそのような恐怖と立ち向かわなくてはならなくなってしまう。

 教育とは時代のニーズによって内容が変わってくる。そしてこれからの時代は、個性ある人材が求められるようになってくるのは間違いない。だが肝心の、個性教育を行える教師が、日本にはほとんどいない。それも当然で、ずっとデメリットシステム教育を行っていた日本では、きちんと自分の頭で考えることが出来る、自主性の訓練を受けた人材が育っていないからだ。個性教育を行おうにも、現在の教師にそもそも、自主性を持って行動できる人材がほとんど存在しない。
 そうやって、自分の頭で考える能力を持たない人間が集まった結果。授業数を減らせば、ゆとり教育になって個性も育つだろう、なんて迷走した方針を打ち出すことになる。いやもしかして陰謀論になってしまうが、ゆとり教育もデメリットシステムを少しでも長引かせるための企みだったのかもしれない。

 時代の変革期には必ず、旧世代と次世代との衝突が起こるものだ。旧世代はかつて自分たちが独占していた既得権益の旨味を忘れられないものだ。ゆえに旧世代は必ず、次世代の芽を叩いて潰そうとする。
 もしもこのまま、デメリットシステム教育が必要とされなくなったらどうするか。旧世代の教師たちは、個性教育によってきちんと自主性の身についた生徒たちに、追い越されてしまうかもしれない。もしくは次世代の、個性教育の訓練を受けた若い教師たちに追いやられて、職を失うかもしれない。
 その恐怖に突き上げられて、旧世代は次世代を攻撃することになる。未来を犠牲にしてでも、今ある自分たちの利権にしがみついていたいからだ。これも時代の変革期には珍しくはない。現在とは喩えて言うなら「親が生き残るために子を食い殺す」時代なのだ。

 そんなことはない、親はいつだって子供のことを考えてくれている、とお怒りの方もいるでしょう。ですが、全ての親が子供のためを思っている、のかと言うと悲しいかな答えは「否」としか言えない。世の中を探せば、そんな酷い親が存在するのも確か。ましてや、赤の他人である教育者だったとしたらどうだろう。
 「子食い」の分かりやすい例が受験戦争だ。今や学歴社会もかなり崩壊しつつある。高学歴を持てたとしても、一流企業に就職できたからと言っても、幸福になれるとは限らない。そんなこと、今では誰も知っている。しかも、日本では受験の歴史も長い。受験戦争で心を病んでしまう者が多いことは、既に統計として出ているそうだ。
 だが受験戦争は終わらないどころか、一部では激化している感すらある。例えば、必修科目の未履修問題。あれにはボクも頭に来た。「必修」とは単に「国が決めた、必ず修めるべき知識」と言うだけの意味ではない。現代日本社会で日常生活を送るために「修めることが必要な知識」だからこそ「必修」と言うのだ。受験に合格させることだけを考えて、生徒の生きるスキルを不足させてどうすると言うのか。
 心を病むかもしれない。生きるための知識すら与えられない。過剰な受験戦争が子供たちに幸福を与えないことは明らかである。

 だが受験戦争は終わらない。何しろカネになるからね。問題と弊害の多いシステムも、利権が絡むと中々変革されないものです。
 最も簡単な金儲けの方法は、いつの世も、強者が弱者から搾り取ることである。何しろ弱者が相手なら、反撃される恐れもありませんから。そして、子供たちほど際弱の存在はいない。子供相手のビジネスは、強者にとって最も旨味のあるエサなのである。
 だから「子食い」は現在と言う時代の必然なのかもしれない。

 ……だが考えて欲しい。
 いくら旧世代の人間が、時代の流れを阻害しようとしたとしても。またその阻害により、次世代にどれだけの犠牲が出たとしても。時代の流れは止められない。時計の針を進めることや遅らせることは出来ても、戻らせることだけは絶対に不可能だ。そして、教育は常に時代のニーズを反映する。早晩遅からず、デメリットシステムの庇護を受けていないと授業を出来ない教師は、職を失うことになるのは間違いない。
 また「子食い」と言うのも実際は、収入の前借りのようなものだ。もしくは、来年の種籾を食べて、今日の飢えを凌ぐようなものと思って良い。いつか必ず、因果は自分たちに返る。今の苦労を惜しんで、将来もっと困ることになるのは、当の自分たちなのだ。
 だからこそ、今は少し苦しくても、明日のために種を蒔かなくてはならない。十年後、百年後のため。本来、教育とはそのようなものであったはずなのだから。
posted by はまさん at 00:14| Comment(2) | TrackBack(0) | 連載:はま受験(完)
この記事へのコメント
とても楽しく拝読させていただきました。しかし、裏の裏かんぐりすぎですよ〜 全ての人がそうではないですよ。
Posted by Qoo at 2007年03月21日 13:47
いらっしゃいませ。読んでくださって、ありがとうございます。

そうですね。確かに、ごく一部の話であって、今はたまたま、その「ごく一部」の割合が増えているだけ、なのかもしれません。

しかし、どうしても不安感を抱かずにいられないのも確かな話でして。

願わくば、さっさとこんな議論が過去のものとなって欲しいものです。
Posted by はまさん at 2007年03月22日 00:32
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