2007年02月25日

「個性を伸ばす=ゆとり教育」にツッコミを入れておく 第2回

目次 : 第1回 第2回 第3回 第4回
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■個性はどこにある?

 これからの日本教育はどうあるべきか。今もきっと、有識者や教育関係者や政治家の方々が、日々激論を戦わせているのでしょうね。
 将来的に、個性ある人材が求められることにある。これはどうやら間違いないらしい。しかし旧来の押しつけ教育では個性が伸びない。じゃあと言うわけで、「個性を伸ばすゆとり教育」をやってみたのだけど、なんだか低学力化が進んだだけで終わってしまった。どうやら、ゆとり教育は失敗だったらしい。
 さて、どうしよう。

 確かに。押しつけ教育のままでは、もう既に現代社会にあっていません。いろいろと問題も噴出して当然です。だって、今のような管理教育のシステムが確立されたのは、百年間ですもの。だからボクも「個性を伸ばす教育」には賛成します。旧来の管理型教育システムを改革することにも賛成します。
 ですけど、なんで「個性を伸ばす教育」=「自由なゆとり教育」なのか理解できない。個性とゆとりとは、セットになっている存在ではないと思うのです。

 いや、本当は何となく分かっていますよ? お偉いさんたちの思考回路。
 押しつけ教育では個性が育たない。では、押しつけとは逆のことをやれば良いんじゃないか。よし、それなら自由なゆとり教育だ。ガキをほっぽらかしにしとけば、勝手に個性が育つだろう。ところで個性って何だ? いや自分も個性を伸ばす教育なんて受けてきたわけじゃないし、知るわけがないじゃないか。でもまあ、押しつけ教育とは逆のことをやっているのだし、きっと個性が育つに違いない。それにほら、いま学校で学級崩壊とかいろいろ問題が起きているだろ。あれ絶対に押しつけ教育のせいだろうとね。さもなくば、管理教育をやめたくて堪らない。自由という言葉が好きで堪らないなどの、狂信的な理由があったのかもしれません。
 どのみち、管理教育は失敗したから「悪」に違いない。と言う思考停止がそこにはあったに違いありません。しかし実際には、ゆとり教育にした途端、学力は低下する。学級崩壊などの問題も解決する方向に向かわない。むしろ諸問題は悪化している。まあ、組織のトップに立つような人間には無能しかいないのは、日本の伝統ですから仕方がありませんね。

 いつでも教育の意義とは基本的に、有用な人材の育成にあります。子供たちが将来、社会で幸福に生きて行くための知識・スキル・ツールを身に付けさせる。これが学校と教師の役割です。
 そして現在、大量消費社会が終わりつつある。個性こそが最高の価値となる時代が到来しつつある。いつまでも管理教育システムのままで、協調性ばかり教えていても、子供たちは将来ぜったいに幸福になれない。それは教育関係者なら全ての人間が把握していて当然です。知らないのなら、その人は単に勉強不足なだけで。
 しかし、将来を見据えた場合、個性を身に付けさせれば良いのだとして。ではその肝心の「個性」とは一体なのか。充分に議論が行われたのか、ボクには疑問です。

 簡単に考えて、「個性」とは「固有の特性」のこと。その人だけが持っている、もしくは他に持っている者が少ない特性を指して、「個性」と呼びます。「誰にでも出来ること」、「誰でも持っているもの」を個性とは呼びません。
 ところが人間はかなりの確率で、肉体的に同じような性質を持って生まれて来ます。基本性能は大して変わらない。
 足の短い長いだって、基本範囲内。最長と最短で10倍は違って当然、なんてことはありません。顔についている目鼻口などの器官も、よほどのことがない限り、数は同じです。人によって目の数が違って当然、なんてことはありません。人間の基本特性に、そんな大きい振り幅があるのなら、人類はもっと違った社会システムを構築しているはずです。
 ですから生まれついての才能だけで、目指すジャンルのトップクラスになれることは、絶対にありません。小学生の頃なら生まれついての差で一番になれたとしても、競争社会のトップに近付くにつれ、天性の差は少なくなってくる。「五つ神童、十で天才、二十歳過ぎればただの人」と言う文句があります。生まれもっての資質なんて、プロの世界にでも行けば、珍しくも何ともありません。
 長期間の訓練を積んできた人間に勝てる素人は存在しません。イヤボーンで解決できる困難なんて世の中には存在しません。才能とは、努力と工夫と情熱と時間を積み重ねた、てっぺんにしか存在しないものなのです。
 と言うわけで、「個性=天性の才能」と考えるのは間違い。

 すると次は「個性=性格」だと考えれば良いのかと言う話になります。だがこれも正しくはありません。
 確かに人には、好き嫌い、向き不向きがあります。好き嫌いや向き不向きによって、スキルの修得スピードは、人により格差となって現れてくる。だからと言って、ラクばかり、怠けてばかりでは何も成し遂げられない。
 いくら自分では「個性」を持っていると、いくら信じていたとしても。その「個性」が社会にとって有用でなければ育む価値はありません。例えば、屁がとてつもなく臭い才能とか、人を不快にさせて喜ぶ才能だとか。まず用途は存在しないでしょう。
 教育対策にかける費用だってタダじゃないんですから。学校は「個性という名の異常性」を育てる場ではありません。必要なのは「個性」自体ではなくて、「社会に必要とされている有用な個性」を伸ばしてやることです。

 では教育の場で伸ばすべき「個性」とは一体どのようなものなのか。
 社会的に見て、個性とはスキルにより決定します。何が出来て、何が出来ないか。どのような資格を持っているか。どんな学歴を持っているのか。ちなみに協調性や適応性、向き不向きなど。性格的適正はスキルのうちと言うことになります。
 適正を持って「ない」のは、個性として誰からも認められることはありません。

 とこのように考えてみると、ゆとり教育がなぜ失敗したのか。理由が分かってはこないでしょうか。
 現在は、大量消費社会からブランド化社会へと移行しつつある。だからと言って、大量消費のシステムが消えてなくなるわけではありません。大量消費社会のシステムに、より高度な次元の価値観がプラスされると言うだけの話です。
 つまり、旧来の管理教育が育んできた、協調性の教えが不必要になったわけではない。協調性に加えて、更に個性も求められるようになった、と言うことなのです。ですから個性をはぐくむ教育は、管理教育より難しく高度だと言うだけである。ゆえに、個性教育と管理教育は別に、相反するものではないのです。
 ただ単に授業を減らしたって、アホを大量生産するか、塾を設けさせて受験戦争を激化させるか。どのみち個性ある人材の育成にはつながりません。

 ……じゃあ、ゆとり教育とは一体何だったのか。旧来の管理教育を否定するだけ否定しておいて、ならば教師は何を教えていたのでしょうか?
posted by はまさん at 10:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 連載:はま受験(完)
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